We Will Rock Q LGBTのロック&ポップス史

第1回「デヴィッド・ボウイ」

bowe

今年1月に69歳で亡くなったデヴィッド・ボウイ。ロック史上、最も強い影響力を及ぼしたアーティストの一人である彼の功績は、これからもさまざまな評論家のかたたちが検証し、語り継いでいくことと思います。この連載の第1回では、そんなデヴィッド・ボウイの性的指向に焦点を絞り込んで、その変遷について振り返ってみます。

2016年の今日では、性的少数者であることを公にして大手レコード会社から作品をリリースしているアーティストの存在は、決して珍しいものではなくなってきています。これは言い換えると、著名アーティストのカミング・アウトの事例が増えてきた、ということでもあります。

では、性的少数者であることを既に最初から公表していたアーティストが、大手コード会社からデビューを果たした例となると、残念ながら、現在でもその数は決して多くはありません。

アメリカで初めて、オープンリー・ゲイのアーティストが、インディーズではなく大手レコード会社から登場したのは、1973年のことです。グラム・ロック・シンガーのジョブライアスが、大手のエレクトラ・レコードからファースト・アルバム『謎のジョブライアス』をリリースしたのがアメリカでの最初の例とされています。

同性愛の公表や、異星人というキャラクター設定など、デヴィッド・ボウイからの類似点も多いジョブライアスは、エレクトラ・レコードによる大々的な宣伝があったにもかかわらず、期待ほどの成功は収められず、翌74年のセカンド・アルバム『頽廃の街角』を最後に、表舞台からは姿を消しました。

同じく1974年には、ヒッピー風のいでたちをしたオープンリー・ゲイのフォーク・シンガー、スティーヴン・グロスマンが、アルバム『キャラヴァン・トゥナイト』で、やはりアメリカ大手のマーキュリー・レコードからデビューしていますが、しかしグロスマンも商業的には振るわず、彼が生前に遺したアルバムはこの1枚のみ。2016年現在も残念ながら廃盤のままです。

このように、1970年代の前半に、アメリカの大手レコード会社からオープンリー・ゲイのアーティストが続けざまに姿を現した、その時代背景の一つには、カウンターカルチャーの隆盛がありました。

カウンターカルチャーとは、主流の文化に対抗する、反体制的な文化のことです。ベトナム戦争の泥沼化を受けて、1960年代後半から70年代前半にかけて、アメリカを中心にして、社会的に大きなうねりを形成しました。1969年に開催されたウッドストック・フェスティバルは、その頂点です。

同性愛が禁忌の社会では、それを公にするという行為は、否応なく反体制の性質を帯びることになります。だからこそ、当時のカウンターカルチャーの只中にいた若者たちのあいだでは、特にバイセクシュアリティが一種のカウンターカルチャーとして理解されていたのです。

既存の社会への反逆行為として、あるいはカウンターカルチャーの標語であるラヴ&ピースの実践として、バイセクシュアリティをあえて試みるストレートの若者たちさえもいました(同性も異性もどちらも愛せる=博愛、という考え方だったのかもしれません)。

1977年にサンフランシスコ市会議員に当選してアメリカ初のオープンリー・ゲイの公職者となったハーヴェイ・ミルクも、若いころには広義のカウンターカルチャーであるヒッピー文化の影響を受けていました。70年代後半のアメリカのゲイ解放運動は、カウンターカルチャーの洗礼を受けた世代の人々によって支えられ、推し進められたものでもあったのです。

そして、本題のデヴィッド・ボウイです。

1967年にデビュー・アルバム『デヴィッド・ボウイ』をリリース、1969年にはシングル「スペース・オディティ」が英米で初のヒットを記録して、人気アーティストの仲間入りを果たしたデヴィッド・ボウイは、70年代に入ってからはグラム・ロックに接近し、やがてはカウンターカルチャーを代表するアーティストの一人と見なされるようになります。

当時のデヴィッド・ボウイの特徴の一つであった、華美なメイクを施した妖艶なヴィジュアルは、現在の基準からすれば、さほど奇抜には見えないかもしれません。しかし当時は大きな衝撃でした。

単に性別を越境しているというよりも、男らしさの定義とはいったい何なのかを、見る者に改めて問い直させる、そんな性質の、当時のボウイのヴィジュアルは、これもまた反体制的なものであり、当然これを嫌悪する人々は大勢いたでしょうが、同時に熱狂的なファンをも多く生み出し、彼は「メジャーなカルト」と評されるようになります。

そんな彼が、初めて同性愛を公言したのは1972年。イギリスの音楽新聞『メロディ・メイカー』紙の1月22日付のインタヴューでのことでした。もちろん、社会を挑発する意図があってのものです。

ここで注意を促しておきたいのは、彼の本国イギリスでは、当時はまだスコットランドや北アイルランドで、男性同士のアナルセックスが違法行為とされていた、ということです。

つまり、この時代にイギリスのロック・スターがカミング・アウトするということは、単なるイメージ・ダウンだけでは済まされない、それ以上の大きなリスクを伴うかもしれないものだったのです。

そのことを考え併せれば、このデヴィッド・ボウイの1972年のカミング・アウトが、いかに勇敢なものであったかが理解できます。

しかし一方で、このカミング・アウトは、真偽の曖昧さをも多分に含んだものでもありました。
ここでの彼は、「まだ僕がデヴィッド・ジョーンズ(彼の本名)だったころから、僕はずっとゲイだった」と語っているのですが、これというのはつまり、デヴィッド・ボウイという存在が、そう名乗り始めるようになる前の彼とは必ずしも地続きではない、いわば虚構の存在であるかもしれない可能性を、逆説的にほのめかしてもいるからです。

bowe同年の6月には、異星からやってきた架空のロック・スター、ジギー・スターダストの栄枯盛衰を描いた、彼の代表作となるコンセプト・アルバム『ジギー・スターダスト』がリリースされていますが、このアルバムに顕著なように、70年代のデヴィッド・ボウイは、虚像と実像の境が曖昧な、存在そのものが非常に演劇的な性質のロック・スターだったのです。

だからこそ、彼の同性愛も実はギミックなのではないか? という憶測がそこから生まれることとなり、それは次第に強まっていきます。

1976年9月には、ボウイはアメリカの月刊誌『PLAYBOY』のインタヴューで、「あなたのバイセクシュアリティはどの程度事実で、どの程度ギミックなんですか?」と真偽のほどを問われていますが、これに対してボウイは「本当のことさ。僕はバイセクシュアルだ」と答えました。

にもかかわらず、1983年、ボウイはアメリカの雑誌『ローリング・ストーン』の5月12日号に掲載されたインタヴューで、1972年の『メロディ・メイカー』紙でのインタヴューを「最大の過ち」だったと語り、バイセクシュアルであることを否定しました。

そして、このインタヴューと同時期にリリースしたダンス・ポップ寄りの14作目のアルバム『レッツ・ダンス』が全世界で大ヒットを記録したことで、デヴィッド・ボウイはそれまでの「メジャーなカルト」からは完全に脱却して、かつての自分とは対極にあったはずの、主流のスーパースターへと転身を遂げました。

それから10年という時を経た、1993年。ボウイはイギリスの音楽誌『NME』の3月号に掲載された対談の中で、70年代当時のバイセクシュアル時代を振り返って、次のように語っています。

「ゲイじゃなくてストレートだけど、ただそのことを確かめたかっただけ」「当時まで社会でタブー視されていた一分野に首を突っ込むというのは、すごくエキサイティングなことだった」

——つまり、一連の彼のカミング・アウトは、やむにやまれぬ真実の告白というよりも、既存の社会の禁忌を破ることにプライオリティが置かれたものであったことが、この対談記事では、彼自身の言葉によって示されています。

また、1975年にデビューした、メンバー全員が女性のアメリカのハード・ロック・バンド、ザ・ランナウェイズの初代ヴォーカルであったシェリー・カーリーは、同バンドのリズム・ギタリストだったジョーン・ジェットとのあいだにあった当時の同性愛関係について、アメリカの音楽誌『スピン』の2010年3月号のインタヴューで、次のように回想しています。

「70年代の中頃には、ちょうどデヴィッド・ボウイがバイセクシュアルをカミング・アウトして、エルトン・ジョンがそれに続いていて、そうしたことにすごく興味をそそられてたの。私たちは試してみただけ。お互いに恋をしていたわけじゃない」

このシェリー・カーリーの発言を、先のボウイの発言と併せて読んでみると、70年代当時の英米では、バイセクシュアリティをカウンターカルチャーの一種として理解し、しかもそれを試すことさえしていたストレートの若者たちの存在もあったことがうかがえるのです。

今日では、デヴィッド・ボウイのバイセクシュアル時代は、批判の対象となることも多いようです。ボウイ自身、先に紹介した『NME』1993年3月号の対談中で、「僕がゲイ・コミュニティの代弁者になれないということがわかると、みんな敵意をむき出しにしてきた」と語っています。

バイセクシュアリティを実践し、それを公にしていた過去を、よりにもよって「最大の過ち」などと言われてしまったら、英米のゲイ・コミュニティが彼に腹を立てたのも、無理からぬ話ではあります。しかし、同性愛行為が法に触れる怖れのあった時代のイギリスで、それをあえて公言した彼の勇気と、それによって彼が当時の英米の性的少数者の若者たちに及ぼした影響の大きさは、誰にも否定できません。

事実、80年代以降になると、デヴィッド・ボウイを敬愛し、彼からの影響を大きく受けたオープンリー・ゲイのアーティストたちが、イギリスから次々と登場してくることになるのです。

そんなデヴィッド・ボウイとは全く対照的な道筋を辿って、自身の性的指向について語る言葉が変化していった、同時代のスーパースターがいます。

それが、シェリー・カーリーのインタヴュー中にも名前が出ていた、エルトン・ジョンです。

(続く)

【参考文献】

『ロッキング・オン』Vol.22 1993(株式会社ロッキング・オン、1993年)

【参考URL】

http://www.5years.com/oypt.htm

http://www.playboy.com/articles/playboy-interview-david-bowie

http://www.rollingstone.com/music/features/straight-time-19830512


藤嶋隆樹

1972年、神奈川県生まれ。大学在学中の1995年に、耽美小説誌『小説JUNE』で小説家デビュー。1999年にはゲイ雑誌『さぶ』にも作品を発表。2001年にゲイ雑誌『G-men』の第8回ジーメン小説グランプリで優秀賞を受賞。2000年代後半からは古今東西のさまざまなLGBTミュージックを紹介するサイト『Queer Music Experience.』を運営。

 

イラスト/ こうき