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アメリカには、NewNowNextという、ゲイおよびバイセクシュアル男性向けのニュース・サイトがあります。このサイトは、2005年の開設時には、AfterEltonという名称でした。

この事実からうかがえるのは、英米のゲイ・シーンには、エルトン・ジョン以前と以後がある、ということです。

しかし、その境目は、エルトン・ジョンのカミング・アウトそれ自体ではありません。

エルトン・ジョンが、その圧倒的な知名度の高さを自ら活かして、自身の名を冠したエルトン・ジョン・エイズ基金を1992年に設立し、慈善活動に大きな力を注ぐようになり、さらにはゲイ・コミュニティの代弁者として、性的少数者をめぐる人権問題についても積極的に発言するようになった、そうした変化を見せた前後の数年間が、エルトン・ジョン以前と以後を分かつ、大きな境目の時期だと考えられます。

言い方を変えれば、この「エルトン・ジョン以前と以後」という時代区分は、「エイズ・パンデミックの以前と以後」、ということでもあります。

それ以前のエルトン・ジョンは、既に世界的なスーパースターではありましたが、しかし社会的・文化的な影響力が強いアーティストだとは考えられていませんでした。

そのことは、エルトン・ジョンというスーパースターが、人々からどのように語られていたかを見ればわかります。

たとえば、エルトン・ジョンと同時代のスーパースターであったデヴィッド・ボウイの場合は、彼が後続に及ぼした影響力の強さとか大きさの面からその偉大さが語られることが多いのに対して、エルトン・ジョンの場合は、レコードの売り上げ枚数やヒットチャート上での記録、あるいは彼の資産額などといった、商業上の成果を示すデータとしての数字によって語られる場合が、現在でもほとんどです。

この違いというのは、エルトン・ジョンのスーパースターとしての性質が、デヴィッド・ボウイのような「メジャーなカルト」ではなく、非常に幅広い層から好まれる大衆的な存在であり、ゆえに裏を返せば、社会的には当たり障りのない存在でもあった、ということを意味してもいます。

そんなエルトン・ジョンが、初めて自身の性的指向についてインタヴューで言及をしたのは、奇しくもデヴィッド・ボウイが自身をバイセクシュアルだと断言した直後の、同じ1976年のことでした。アメリカの雑誌『ローリング・ストーン』の10月7日号に掲載されたインタヴューがそれです。

エルトンの性的指向は、既にこれよりも前から人々の憶測の対象になっていたようです。たとえばエルトンの初めての大ヒット曲である、1970年のシングル「僕の歌は君の歌」は、実は「Boy」に向けて歌われた曲です。

「もしも僕にお金があったなら、君と一緒に暮らせる大きな家を買おう」と歌う、この叙情性豊かな美しいピアノ・バラード曲の歌詞を手がけたのは、これ以降もエルトン・ジョンのヒット曲のほとんどの歌詞を書いている、詩人のバーニー・トーピンなのですが、この曲が書かれた当時のエルトンとバーニー・トーピンは、音楽界での成功を夢見ながら、2人で共同生活を送っていました。そんな彼らを恋人同士だと憶測する声も、当時は少なくなかったようです。

この1976年の『ローリング・ストーン』誌のインタヴューでエルトンは、頂点を極めた者であるからこその疲弊と孤独を語り、セックスには消極的であることを示唆した上で、次のように語っています。

「結局のところ、やっぱり僕は女性と恋に落ちるだろうね。だって、男よりも女を相手にしたほうが、関係は長続きするような気がするんだ。でも本当のところはよくわからない。こんなことを話すのは初めてだからね、ハハハ。でも(録音用の)テープはオフにしなくてもいいよ。僕はまだ、この人と落ち着きたいと思える人とは出会ってないんだよ――どちらの性別であってもね」

このエルトンの発言を受けて、インタヴュアーは「あなたはバイセクシュアルなんですか?」と訊ねます。するとエルトンはこう答えました。

「同性とベッドを共にすることは、何も悪いことじゃない。誰だってある程度はバイセクシュアルだと僕は思うよ。僕だけがそうだとは思わない。悪いことなんかじゃないんだ。君だってバイセクシュアルだと僕は思う。誰しもがバイセクシュアルなんじゃないかな」

――つまり、この1976年のインタヴューでのエルトン・ジョンは、自身をゲイではなくバイセクシュアルだとしており、継続的な関係を結ぶのであれば相手は女性のほうがいい、と語っています。そして、エルトンとバーニー・トーピンが恋人同士であるとする、かねてからの憶測については、ここで全面的に否定しています。

ところが、このエルトン・ジョンのカミング・アウトは、デヴィッド・ボウイのそれとは全く対照的な受け取られ方をしました。

デヴィッド・ボウイが最初にカミング・アウトした、1972年の『メロディ・メイカー』紙でのインタヴューで、実はボウイは、自身をバイセクシュアルではなくゲイだと明言しています。にもかかわらず、人々はボウイのことをゲイではなくバイセクシュアルだと解釈し、さらにはそのバイセクシュアリティすらも、ギミックなのではないかと憶測しました。

エルトン・ジョンの場合は全く逆で、この1976年のカミング・アウトは、「本当はエルトン・ジョンはバイセクシュアルではなく、ゲイなのではないか?」という憶測を、かえって強めることとなりました。

このインタヴューでは、インタヴュアーがエルトンに気を遣って、何度も録音を止めようとするのを、むしろエルトンのほうから録音の続行を求める場面が、幾度も出てきます。そのため一見すると、ここでのエルトンは非常に赤裸々であるかのような印象も受けるのですが、実はそうではありません。

そもそも、ここでのエルトンは、「あなたはバイセクシュアルなんですか?」という問いに、イエスかノーかで答えてはいません。

代わりにエルトンが口にした、「僕だけがそうだとは思わない、みんなもそうだと思う」という答えは、実際のところ、いたずらを叱られた子どもがよく口にする、「やったのは僕だけじゃないよ、みんなもやってるよ、だから悪いのは僕だけじゃないよ」という言い訳と、ほとんど同じ理屈なのです。

つまり、そこには明らかに、守りの姿勢がうかがわれるのです。

この後、エルトン・ジョンは1984年2月に、ドイツ人のサウンド・エンジニアの女性、レネーテ・ブリューエルと結婚しています。バイセクシュアルの男性が、女性と結婚するのは、別におかしなことでも間違ったことでもないのですが、しかしこのエルトンの結婚を報じたアメリカの『ピープル』誌は、レネーテ・ブリューエルのことを「a lover or a cover(恋人あるいは隠れみの)」と、駄洒落で揶揄しました。

こうしたマス・メディアによる憶測は明らかな人権侵害であり、それ自体は決してあってはならないことです。しかし、エルトンがゲイであることは既に公然の秘密になっていたのもまた事実で、1988年に2人が離婚するのと前後して、エルトンは自身がゲイであることを、殊更に隠そうとはしなくなっていきました。

そうした変化の背後にあったものが、先にも述べたように、エイズの爆発的な流行だったのです。

アメリカでは、1981年に初めてエイズの症例が報告されました。当時のレーガン政権が、これといった対策をとらないでいるうちに、たちまち感染は拡大し、それと同時に、エイズはゲイだけが罹患する病気だという誤解が世に広まり、アメリカのゲイ・コミュニティは新たな脅威に晒されることとなりました。

このエイズ・パンデミックは、英米のショー・ビジネスの世界にも深刻な打撃を与えました。ゲイのアーティストたちが、次々とエイズによって命を落としていったのです。

前回紹介した、アメリカの大手レコード会社からデビューしたオープンリー・ゲイのアーティストの先駆けであった、ジョブライアスとスティーヴン・グロスマンの2人も、エイズによって亡くなりました。ジョブライアスは1983年8月3日に、グロスマンは1991年6月23日に、それぞれこの世を去っています。

エルトンは後年になってから、80年代のころは実はリスキーなセックスに耽溺していたこと、そして自分がHIVに感染しなかったのは、ただ単に運が良かっただけであることを、さまざまなインタヴューやコンサートのMCで、現在でも繰り返し語っています。

エイズを引き起こす原因としてHIVが確定され、検査方法が確立された翌年の1985年に、エルトン・ジョンは、ゲイ男性からの人気も高いディオンヌ・ワーウィックからのオファーを受けて、米国エイズ研究財団のためのチャリティー・シングル「愛のハーモニー」のレコーディングに、スティーヴィー・ワンダー、グラディス・ナイトらと共に参加しました。

「愛のハーモニー」は、全米のシングル・チャートで4週連続1位を記録しただけでなく、1986年の年間チャートでも首位となるメガ・ヒットを記録。そして、その売り上げの全額が、米国エイズ研究財団に寄付されました。

しかし、抗レトロウィルス療法が確立され、エイズが死の病ではなくなるまでには、まだ多くの時間が必要でした。

1991年11月24日、エルトンの親しい友人でもあった、クイーンのヴォーカリストのフレディ・マーキュリーが、HIV感染によって引き起こされたニューモシスチス肺炎のため、45歳という若さでこの世を去りました。彼がHIVに感染していることを全世界に向けて公表した、その翌日の出来事でした。

フレディ・マーキュリーについては、いずれまた別に回を設けて詳しく語る予定ですが、不世出のアーティストとして世界的な名声を誇っていたフレディの死は、英米のミュージック・シーンで活躍する性的少数者のアーティストたちの存在の性質が変化していく、その大きな契機となります。

フレディの死は、紛れもなく大きな悲劇でした。しかし一方で、彼はもっと早い段階でHIV感染を公表するべきだったとする批判的な意見も、実は存在しています。

もちろん、私的な事柄をどこまで公にするかは、完全に個々人の自由です。こうしなければいけないという絶対的な一つの規範などは存在していません。しかし、世界的な著名人であるフレディが、もっと早くにHIV感染を公表していれば、人々の意識の啓発に大きく貢献することができたはずだという声も、決して少なくはないのです。

そこで、フレディの死を大きな契機として、性的少数者の著名人には、単なるカウンターカルチャー以上の存在であることが、これまで以上に強く求められるようになってきたのです。

性的少数者の声を代弁する者として、あるいはロール・モデルとして、あるいは活動家として、その知名度の高さを能動的に活かすことが、オープンリーの当事者のアーティストには求められる、そうした傾向が強まってきたのが、90年代という時代の潮流だったのです。

そしてエルトン・ジョンは、そのことに極めて自覚的なアーティストの筆頭でした。それは現在でも変わりありません。

先述したように、エルトン・ジョンが自らの名を冠したエルトン・ジョン・エイズ基金を設立したのは、フレディ・マーキュリーが亡くなった翌年の、1992年のことです。

同年の『ローリング・ストーン』誌の3月9日号に掲載された、『エルトン・ジョンの再生(The Rebirth of Elton John)』と題されたインタヴュー記事では、筆者のフィリップ・ノーマンが、「もはやエルトンは自分をバイセクシュアルと呼ぶこともなく、ゲイでいることは居心地が良いと言っている。」と書いています。

そして同年6月には、カミング・アウト後の商業的な低迷(あくまでも絶頂期と比較しての話ですが)やアルコール中毒といった問題を乗り越えて彼が見事に復活を果たした傑作と評されている、通算23作目のオリジナル・アルバム『ザ・ワン』がリリースされます。ここからのセカンド・シングル「ラスト・ソング」は、フレディ・マーキュリーの死の直後に書かれたもので、エイズに侵されて死を迎えつつあるゲイの息子とその父親のドラマが描かれています。

そして、この「ラスト・ソング」以降、彼のシングルの売り上げは、全額がエルトン・ジョン・エイズ基金に寄付されています。

さらに翌1993年には、エルトンを決定的に変える、もう一つの出来事が起こります。

それが、デヴィッド・ファーニッシュとの出会いです。

ファーニッシュは、当時は広告代理店の役員を務めており、共通の友人の紹介で知り合った2人は、互いに惹かれ合い、やがて交際をスタートさせます。

ファーニッシュとの交際は、この時点でのエルトンにとっては、もはや隠すべきものではなくなっていました。2人の交際は最初からオープンにされていました。

2005年12月には、エルトンの本国イギリスで、シヴィル・パートナーシップ法が施行され、イングランドとウェールズで同法が有効となった21日に、エルトンとデヴィッド・ファーニッシュの2人は、同法の適用が認められたイギリス初の同性カップルのうちの一組となりました。

2010年12月25日には、代理出産によって長男ザッカリーが誕生。続いて2013年1月11日には、同じく代理出産で次男イライジャが誕生。そして2014年、ついにイギリスでも同性婚法が施行され、エルトン・ジョンとデヴィッド・ファーニッシュは、2人の記念日である12月21日に、晴れて正式に婚姻関係を結びました。

同性婚も代理出産も、実は性的少数者の当事者のあいだにあってさえ、今なお賛否が分かれるものです。しかし現在のエルトン・ジョンは、そうやって賛否を争って徒らに時間を費やすよりも、先ずは自分たちが同性カップルのロール・モデルとして、その実例を人々の前に積極的に示していこうとしているように見えます。

つまり、社会に多大な影響を及ぼす力を有したロール・モデルが、英米の性的少数者の人々の前についに姿を現した、それこそが、冒頭で述べた「エルトン・ジョン以前と以後」、ということなのです。

英米のゲイ・シーンには、エルトン・ジョンが性的少数者のロール・モデルとして新たに生まれ変わった前と後、という時代区分が、存在しているのです。

 

【参考文献】

Mary Rhiel, David Suchoff『The Seductions of Biography』(Routledge, 1996)

【参考URL】

http://www.rollingstone.com/music/news/elton-john-lonely-at-the-top-rolling-stones-1976-cover-story-20110202

 

藤嶋隆樹

1972年、神奈川県生まれ。大学在学中の1995年に、耽美小説誌『小説JUNE』で小説家デビュー。1999年にはゲイ雑誌『さぶ』にも作品を発表。2001年にゲイ雑誌『G-men』の第8回ジーメン小説グランプリで優秀賞を受賞。2000年代後半からは古今東西のさまざまなLGBTミュージックを紹介するサイト『Queer Music Experience.』を運営。

 

イラスト・こうき