伏見憲明の書評

溝口彰子著『BL進化論』(太田出版)

「それは一種の発明である」と本書はいう。「それ」とは、女性向けに男性同士の恋愛や性愛が描かれた小説やコミック等、いわゆるBL(ボーイズラブ)のことだ。

満を持して発表された溝口彰子氏による『BL進化論』は、60年代の森茉莉から、70年代の萩尾望都や竹宮惠子などの作品を経て今日に至るBLの歴史を、女性たちの成長の物語としてとらえようとした労作である。自身がBL愛好者でもある著者は、「家父長制」「異性愛規範」「ミソジニー(女嫌い)」などジェンダー論やクィア理論の分析概念を用いて、日本社会で女性たちが育んできたこの一大ジャンルについて考察している。

blもちろん本書は、女性たちがBLに持ち寄る欲望はそれぞれであり、読者の数だけ多様であるという前提を置く。が、ここではあくまでもBLが必要とされた理由を、「女性が、家父長制社会のなかで課せられた女性役割から解き放たれ、男性キャラクターに仮託することで自由自在にラブやセックスを楽しむことができる」こととし、性的抑圧からの解放というストーリーに重ね合わせる。こうしたBL解釈は溝口氏自身も含め、これまでも少なからず語られてきたわけだが、本書の肝は、BLを成立させてきた欲望の変化に着目し、そこに社会の「進化」への希望を素描した点だ。

たしかにBLは、「家父長制」の規範内では性的主体となり得ない女性らが、男同士という組み合わせを用いることで、想像力において自由に性愛を享受できる場だった。しかしその欲望空間も性的差別や抑圧と無縁の楽園とはいえない。例えば、「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」などの現実が反映されていることは間違いないだろう。かつての作品では男同士の恋愛が成就されるときに、キャラクターは本来はゲイ(同性愛者)ではないのだが、究極の愛を演出するために、「自分はホモなんかじゃない」というセリフが無邪気に多用されていた。これなど典型的なホモフォビアの現れだ。

著者はこれに「ファンタジー・ポルノだから」と開き直ることをよしとせず、「現実への責任を負った表象」とすべきだと考えるが、単に、PC(政治的な正しさ)をもって批判するのではないのが、溝口氏の眼差しの滋味だろう。リアルな他者(この場合、実際のゲイ)と邂逅することによって、想像力に新たな視点が導入され、欲望自体が変容していく…という過程を、膨大な作品群の内側から筋道立て、明らかにしてみせるのだ。

日本社会も90年代に入ると、ゲイ・ムーブメントが登場し、BLに対してもゲイ当事者からの批判がなされる。著者は、そこでの論争や「出会い」を通じて、2000年代に入ると、「現実に存在するミソジニーやホモフォビア、そして異性愛規範を認識したうえで、それらと交渉し乗り越えていく男性同性愛キャラたちや周囲の姿が、BLテキストという表象のなかで、現実よりもベターなかたちで描かれる」ようになってきた、という。このPCと個々人の欲望とのギリギリの攻防―――表象と現実との交渉を、軋轢と、融和と、創造の過程として描き出した点において、著者の仕事はBL研究以上の広がりを持ったといってよいだろう。

結局のところBL活動は、表現、消費、コミュニケーション…の積み重ねによって、女性たちが「家父長制」の呪縛から解かれていくトレーニングの場であったと、著者は評価する。そして、そこでの女性同士の関係性はそれ自体、友愛とも性的ともいえる交歓で、あるいは「ヴァーチャル・レズビアン」といってもいいのではないか、とも主張する。

長年の研究成果をまとめたものであるだけに多くの示唆に富んだ一冊となっているが、全体としてフェミニズムの思考で構成されているために、そこから削ぎ落とされたであろう部分も少し気になる。著者には、論理にならなかった感情や情緒の断片を掘り起こして、さらに思索を膨らましていってほしいと期待する。

(初出・現代性教育研究ジャーナル)