伏見憲明の書評

雨宮まみ『女子をこじらせて』(幻冬舎文庫)

 

519ewzskjrl-_sx329_bo1204203200_著者の雨宮まみ氏は、アダルトビデオについてのレビューを書くライター。その彼女が、女としての自分探しの道のりを綴ったのが本書である。すでに一部で評判になっているようだが、特殊な職業の人が自分史を綴ったというより、ふつうの女性が多かれ少なかれ体験する「自意識のウィタ・セクスアリス」を掘り下げている点が、共感を得ている理由だろう。

著者はすでに中学生のときには女子としての自信を失っていた。「普通未満の女の子」であるという劣等感は、自分を捨象して欲望を仮託できるボーイズラブの漫画などに走らせる。高校生になると、「モテ」と「学力」の二つの軸で、いわゆる「スクールカースト」が形成され、その最下層に身を置くことになった。が、そこに甘んじることができない彼女は、「個性的」な行動やファッションをまとうことで、その階級制に抗おうとする。

大学に入ってもまったく恋愛に恵まれなかったが、性的欲求が強かったにもかかわらず、自分がセックスをするなんて考えられなかった。「貧乳、肌はにきびだらけ、スタイルよくない」自分が性的に男性から求められるとは思っていなかったからだという。たぶん、それは彼女自身、そのような女性が異性と性交渉を行うことを許せなかったからではないか。

そんな過剰ともいえる自意識に絡めとられた少女も、少しずつ大人へと踏み出していく。ある芸能人の言葉に背中を押され、「ずっと、ブスだから許されないことだと思って諦めてたけど、自分は女っぽいカッコをしてみたかった」ことに気づき、フェミニンな装いをするようになった。すると、ほどなく処女も喪失し、異性と交わる喜びを得た。けれど、その相手は男性にモテる女友だちの恋人で、「もし彼が彼女とつきあっていなければ、私も彼とネタことでそこまでの自己肯定感を得られたかどうか怪しいと思います」

こんなふうにあちこち頭をぶつけながら、成長という名の螺旋階段を上っていくことになるのだが、それはつねに自尊感情と、女であることの不安に引き裂かれた過程であった。よく指摘されるように、女であることはいまだ、エロス的存在としての自己像にほぼイコールで結びつけられている。フェミニズム以後ですら、どんなに社会的に成功しても、女としての自信は性的対象として求められることなくして得難い。

これは男性の性的魅力が必ずしも外見に一致せず、社会的な地位とも重なるのとは対照的だ。もちろん昨今、男にとっても「モテ」問題は深刻になってきてはいるが、それは自己のエロス的なイメージとの軋轢ではなく、自分が男というヒエラルキーのどこに位置するのかという問題になって現れる。こちらの「こじれ」はアイデンティティの問題というより、プライドのそれなのかもしれない。

今日では、男であること、女であることの内実は自明ではなくなり、性別役割分業も柔軟になってきている。また、社会の成熟やネットなどの普及によって平等意識が徹底し、人々は減点法によって自身を裁断しがちだ。自分だって誰々のようであってもおかしくないのに、どうして実際にそうなっていないのか、という発想のなかでは、女としてのアイデンティティは挫折するだけではなく、理想型が明確ではないだけに「こじれて」しまう。「私は『女に生まれなければよかった』と思ってるわけじゃない。女に生まれてよかったと思ってるのに『女なんかに生まれなければよかった』と思わされている」という著者の苛立ちは、人間的な価値とエロス的なそれの両方を体現することを求められる現在の女たちの、ため息そのものだ。

『女子をこじらせて』というのは実に時代を反映したタイトルだが、こうなると次は、プライド問題で「男子をこじらせた」男の書き手の自己分析を読んでみたくなる。

*著者の雨宮まみさんは、2016年に急逝されました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。