注:1993年に書いた原稿です。初出は、柿沼瑛子・栗原千代編『耽美小説・ゲイ文学ガイド』(白夜書房)

「伏見方丈記」其の四

こんど生まれかわったらゲイになりたい

 

いっこうに終わる気配を見せないメディアでのゲイ・ブーム。ゲイの翻訳小説はばんばん売れ続け、ゲイをテーマにした映画はヒットし、耽美コミックはより過激な描写に走り、新宿二丁目のゲイバーでは女性客が我が物顔で酒を呑む。それを一般の雑誌が取り上げることで、ゲイという記号はますますそのバブルを膨らます、という構図だ。

61qy3b0bwwl-_sl500_sx351_bo1204203200_そう、現在いわれているゲイ・ブームを支えているのは、当事者のゲイたちではなく、ゲイを素材にして楽しむ女性たちである。もちろん、近年、ゲイたちによるムーブメントもこれまでになく力をつけてきている。リベレーション団体の活躍はいうまでもなく、もはや一般のゲイが雑誌やテレビに顔を出すことすら珍しくない。けれども、出版や興行といった資本がそこにからんでくる背景には、やはり、ゲイは金になるという実態がある。そして、その需要を満たしているのはほとんど女性たちの懐だ。

それをゲイたちはどんな思いで見ているのだろうか?

中には、女性がゲイたちを見つめる視線は、ストレートの男性が女性を性的対象としてのみ捉えるポルノグラフィーとなんら変わらないと、不快感を示すものもいる。それも一理ある。のぞき、という意味では同じなのだから。男性用のポルノグラフィーがレズビアンを描く場合と同様の、身勝手な解釈と思い入れをそこに付け加えている点も批判されてしかるべきだろう。いくら耽美と実際のゲイは異なり、女性たちは後者ではなく前者を求めていると言い訳してみたところで、ゲイという名の元で表現している以上、当事者であるゲイたちが不快を表明するなら、女性たちはその気持ちを受け止めなければならない。

しかし、ほとんどのゲイはそういった表現をかえって肯定的に受け止めているのではないか。

僕も以前、雑誌の対談で漫画家の吉田秋生さんに、

「ゲイの方たちが不愉快に思っているのではないかと、心配している」

といわれて、反対に驚いたくらいである。僕自身、吉田さんや他の少女漫画に描かれているゲイものを楽しんできたし、それどころか、勇気づけられもしたのだから。

もちろん、ゲイではないひとびとによるゲイに関する表現、発言に疑問を抱いたり、ちょっとばかり不愉快になったりすることもある。例えば、映画『きらきらひかる』を観れば、「なーんでこんなアル中でわがままなオンナがゲイ・カップルの対関係に割り込んでこれるの? ゲイの彼がそのオンナを必要とする必然がどっこにもないじゃん。原作者の女性は自分のオンナとしての甘えに気づいていない!」と気分が悪くなる。映画『おこげ』も、おこげという女性を用いてゲイを描くなんて実に商売上手だなとは関心しつつ、最後までおこげとゲイの主人公がいったい何をお互いに求め合っているのかわからなかった。女性の側のファンタジーが中心に描かれているのだ。ゲイを取り上げた映画が作られるだけで嬉しくもあるが、やはり首を傾げないわけでもない。また、文化人のセンセイがエラそうにゲイを解説することによって、自分の「文化度」を上げようとする姿勢には、心底怒りを感じる。センセイたち勝手なことをいってなさい!

けれども、僕はノン・ゲイの方々によるゲイ表現というやつをけっこう楽しんでいる。「JUNE」だって胸をときめかして読むし、その手の漫画にも目がない。そもそも自分をゲイだと意識する以前、すでに小学生の日に『トーマの心臓』だとか『風と木の詩』を愛読していたくちだ。実は、僕はゲイ歴よりもお耽美歴の方が長いくらいなのである。「薔薇族」や「アドン」を読み始めたのは、「JUNE」や「ALAN」に遅れること数年、二十歳を越えてからだ。少女漫画に描かれる男同士の関係が好きで、それに憧れていたら本当に自分もゲイだった、という経過を経て今日に至った。だから女性の方の気持ちもよくわかるし、思春期の頃はかなり女性の視点でそれらを楽しんでいたのだと思う。

いま読めば、リアルだと言われる吉田秋生さんの男性描写もやはり女性のファンタジーの産物にすぎないと思うのだが、当時はそこに実際の男を感じていた。「男のひとって乱暴で繊細なのね」って。だから欲情の対象もどちらかというとそういった女性のファンタジーとしての男性像であって、いまにしてみると不思議なのだが、股間のモッコリなどにはそんなに関心がなかった(現在は大アリであるが)。

今日でも時として感覚がタイムスリップして、あの頃の視線でゲイを見てしまうことがある。先日、ゲイ映画の試写を観たときもそうだ。あまりにゲイの主人公が美しく、彼らの関係が魅力的なので、つい「ゲイって素敵だな〜。こんど生まれ変わってきたら、ゲイになりたい」と思いつつ、デレデレ涎をたらしてしまった。ハッと我に返って、美の点では雲泥の差があるが、僕もゲイのはしくれなのだと気がついた。情けない。

20120526220854cf6そういうことはままある。ゲイバーで若くて美しい男の子たちがグループで遊んでいれば、別種の人間に見えるし(実際そうなのかもしれないが……)、外国のゲイ文学の翻訳を読めば、憧れこそすれ、自分と同じカテゴリーに属するお話などとはとうてい信じられない。なんでそのような方々と、僕ごときがゲイという共通の呼び名でごいっしょできるのだろう?と。最近、メディアでゲイの代表面して偉そうなコメントをしている僕が、こんなことを言うのもヘンだけどさ。

だから、僕の中には、ゲイという作られたイメージに憧れるお耽美な視線と、現実のゲイという状況に抑圧される当事者の悲哀が共存しているのだ。あー疲れる!

そう、ゲイたちが文学や映画の中に自分たちのリアルな姿だけを求めているというのも、また、話が違うのだと思うのだ。考えてみれば、あの、ベストセラーとなった、ゲイ文学の古典『フロント・ランナー』の作者は立派な女性だし、確かに写実的にアメリカのゲイたちの姿と時代が描かれてはいるが、あれこそ巧妙にリアリティで粉飾されたお耽美小説だとも言える。登場人物たちはみんな美形ぞろいで、ちっともおねえさんなんかではない。対幻想に対する固執、死の装飾、とすべて耽美趣味な女性が好む条件がそろっている。この小説がリアリティを感じさせながらも、けっして事実となりえないのは、主人公のビリーという青年を完全な存在として描き、彼にすべての矛盾を背負わせてしまったところにある。ひとはあんなにも正義感では生きられないし、愛と欲望の間にズレを生じないでいられるのも稀だ。特にゲイの関係においてはね。けれどもそのファンタジーをゲイたちも好み、理想でしかない自分たちの姿に憧れた。それこそが重要なのである。

僕はファンタジーが好きだ。実際にはありえないからこそそこに安らぎも得られるし、日常にたちかえる時のパワーの源泉になる。また、現実ではないからこそ、現実を変える力を持ちうるのだとも思う。それゆえに『フロント・ランナー』はゲイたちのバイブルとしてリベレーションの精神的支柱となったのだろう。

ファンタジーは誰のものでもない。そして誰のものともなりうる。これは女性の領域、あれはゲイの領域と線引きしていくより、そこでいっしょに楽しんじゃったほうがお得ではないか。ゲイとお耽美が混沌としている状況こそ、僕には面白くてしかたがないのだ。