伏見方丈記 其の六

「オネエ」という装置

 

51w3ripvnfl-_sx340_bo1204203200_いまや、オネエ系タレントは百花繚乱、メディアに欠かせない存在になっている。彼らはどうして人気を博しているのか?

マツコ・デラックスとの共著の中で、作家の中村うさぎは、差別があるからこそ、オネエたちはそれを逆手に取り、「治外法権的特権」を行使できる、と分析する。たしかに、「まっとう」とは認められないがゆえに、オネエたちには自由気ままな発言が許されているふしがある。そして、その奔放さは、今の息苦しい社会の「ガス抜き」として機能しているように見える。

とはいえ、差別構造に乗っている点において、オネエたちの戦略は危うい面がある。「しょせんオカマだから!」と言う彼らの常套句は、「差別を甘受する」というメタメッセージもそこに含んでいるからだ。しかし、そうした自虐は差別を固定化する方向ばかりではなく、それを解消する可能性も内包している。

オネエ系タレントの先人であるピーコは、七十年代半ばのデビュー当時、世間からイロモノあつかいをされたという。しかし、毒舌の中にも真理を突いた発言は徐々に大きな支持を得るようになり、九十年代の後半には、糸井重里から「日本のおかあさん」と認定されるまでになった(『ピーコ伝』)。かつてそれを象徴した山岡久乃や京塚昌子のような女優がテレビから消えていくのと対照的に、彼らの露出が増えていったことを考えると、オネエたちは、性的であり続けようとする昨今の女たちの替わりに、母性を体現しているのかもしれない。

それにしても、どうして日本の社会の中で、同性愛者や女装者は欧米ほどには露骨な反発もなく受容されてきたのか。性解放の先進国と目される米国では、一九九七年の時点でも、人気コメディアン、エレン・デジェネレスがTVネットワークでレズビアンであると告白したことが騒ぎとなった。一方、日本ではまだ戦後まもない時期に、人気歌手であった丸山(美輪)明宏がゲイを自認していた。

芸能界ばかりでなく、文壇においても似たような謎がある。七十年代、米国でゲイ文学が興隆する遥か以前、一九四九年に、三島由紀夫は、『仮面の告白』を発表している。同性愛を主題にしたその小説は、まるでオネエそのものであるかのような華美で、大仰で、自嘲的な文体を持っていた。それが文壇のど真ん中に登場し、排斥されるどころか出世作にさえなったのだ。

51np-crnd4l-_sx347_bo1204203200_筆者は当時の書評を渉猟したことがあるが、そこにはキリスト教圏に根深い、同性愛を表現することを嫌悪し非難するような論調はあまりなかった。作者本人の性向についても、無意識に避けられているようだった。後年、三島自身、「モラルに反抗して書いたつもりだのに、ちっとも道徳的に反発されない」と雑誌に語っているが、そもそもこの国の性愛には、『源氏物語』をあげるまでもなく、倫理には回収されえない土壌があった。

『仮面の告白』の主人公は、同性愛に苦悩するも、透徹した眼差しで自分の性向を暴いていく。女性と付き合いかけるなど曲折はあったが、最後には己の拭えない欲望から目を離せなくなった。それはまだ自己肯定と言うには頼りない心持ちであるが、その、自分自身を手放そうとはしない欲望への固執は、現在のオネエたちにも通じる強さと、享楽主義への予感が胚胎していた。

伏見憲明

初出・朝日新聞