二丁目寺の坊主日記 その8

悟りって何?

月曜担当の僧侶、本多です。

営業中、一人が寂しすぎて、藤田一照さんのポッドキャスト(インターネットラジオ)を聞いておりました。その放送の中で、福井県にある永平寺をお開きになった道元禅師という方が悟りを開いた時のお話がありました。

「身心脱落・脱落身心・脱落脱落」

これが、道元禅師が悟りを開いたときに発した言葉です。これを普通に解説すると、『自分から身と心が脱げ落ち、脱げ落ちた身と心となれば、この世の苦しみを脱落させることが出来る』というようなことになります。ようするにそういった、苦しみの原因である身心を脱した境地が悟りだということになるようです。ただ、なんとういうか、意味が分かりません(汗)

まず、身と心が脱げ落ちるっていう意味が分かりませんし、身と心を脱ぐってどんなプレイだよ!ってことにもなりかねません。脱落脱落にいたっては、脱落してるのに、なんでまた脱落を繰り返すのかもよく分かりません。初めてこの言葉を聞いたときは、悟りを開く祖師の方々の言うことは凡人には理解できぬと思っておりました。

よくよく調べてみると、この「身心」は誤字で初め「心塵」だったのではないかという説もありました。心の塵が脱落すると考えるとだいぶ分かりやすくなりませんでしょうか? 自分の心に塵が積もるからこそ修行をし、塵で汚れてしまった心を掃除することで悟りを開けるという意味になるからです。しばらくの間、僕はこの説が正しかったのかもしれないと思っていました。

しかし、禅宗では確固たる「心」を否定します。自分が心だと感じる何かは、時の流れと共に変化するものなので、塵が積もりようがないのです。ようするに川にいくら塵が積もろうが流れてしまうじゃんという話です。もし、大量の塵が川の流れをせき止めても、せき止めた塵は流れによって消えてしまいます。それが繰り返されるだけでしょう。お釈迦様のおっしゃる「諸行無常」とは物質だけではなく、人間の心も常に変化する無常の範疇なのです。

そう考えると、心塵ではなく身心が正しいこととなり、最初の疑問と堂々巡りになってしまいます。そこで、藤田さんはこんなことをおっしゃっていました。

 「身心は脱落。脱落は身心。脱落脱落。 

  脱落っていうのは自由自在って意味だからね。」

私たちの心も身体も、そもそも自由自在であるのに、その自由を阻害しているのは「私」という存在なわけです。なので最初の道元禅師の言葉を、僕なりに現代語訳すると…

「僕らの身も心も自由自在。自由自在であるものは僕らそのもの。自由自在が自分に由って自分が在れば、それが悟り。」

ということになるかと思います。うーん。今までの僕だと、恐れ多くて禅師の言葉を自分なりの言葉にしようなんて思いませんでしたが、二丁目寺をやってますと「本多さん、悟りって何?」という質問をたくさん受けますので、皆さんの前でしどろもどろになりながら答え続けた成果があったのかもしれません。

成長してるのか? それとも傲慢?

もし、傲慢さが育っていると感じたら容赦なくお叱り下さいませ!!

叱って下さる方は月曜夜七時からお待ちしております。DMも可です(笑)

 

本多清寛(しょうかん)和尚。(月曜担当)

1985年生まれ。熊本出身。お寺に生まれお寺に育つ。22歳の時、福井県の永平寺という山奥の修行寺で3年過ごす。修行仲間には相当な迷惑をかけ続けて山を下りる。その後、曹洞宗の研究センターにて仏教を学ぶ。同性婚の問題から、仏教と「性」について気になり、セクシュアリティについて勉強し始めた。生活に役立つ仏さまを模索している。趣味は「こんな時、お釈迦様ならなんて言う?」という大喜利。

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