中村うさぎの『聖書物語』2

「楽園追放」

わたしの横で、彼は軽い寝息を立てている。

彼を起こさないように気をつけながら、その身体にそっと手を這わせてみる。わたしとは違う平らで硬い胸を撫で、臍へと滑らせる。そのあたりから濃くなっていく黒い茂みを指にからめ、さらにその先で小さく縮こまっている柔らかい肉の塊をやさしく突つく。

ついさっきまで、それは硬く大きな棒となって、わたしの中で暴れていた。わたしは目を閉じて彼の肩にしっかりとつかまり、彼の動きに合わせて腰を振った。痺れるような快感が押し寄せてきた時、彼も呻き声をあげてわたしの中に子どもの種を撒き散らした。

彼はこうやって、わたしの中に子どもの種を植える。種がうまく根をおろせば、わたしの腹の中で子どもが成長する。わたしたちだけではない、この園に住む生き物たちは皆こうやって繁殖する。この世界を創った方が「産めよ、殖やせよ、地に満ちよ」と命じられたから、これはわたしたちにとって神聖な儀式なのだ。

種を植えた後、彼は子どものような顔で眠る。わたしはそんな彼の寝顔を見るのが好き。彼の胸に頭を載せ、その寝顔を見つめながら、脇腹を愛撫する。

わたしは彼の脇腹の骨から作られたのだそうだ。わたしはもともとこの場所にいたのか、と、彼の脇腹を見るたびに不思議な気持ちになる。わたしは彼の一部なのか? きっとそうだと感じる時もあるけど、違うような気がする時もある。わたしが彼の一部なのだとしたら、もっと彼を理解できてもいいはずなのに。

 

彼が目を覚ましそうにないので、わたしは退屈して立ち上がった。足の裏で柔らかい草の感触を楽しみながら、ゆっくりとした足取りで森の奥に入っていく。

森の奥には、二本の大きな樹が生えている。どちらの樹にも、常にたわわに果実が実っている。けれど、わたしはその実の味を知らない。この世界を創られた方が、この二本の樹からは絶対に実を取って食べてはならないと、固く禁じられたからだ。他の樹からは好きなだけ取って食べてもいいのに、どうしてこの二本の樹だけは駄目なのか、その理由はいまだにわからない。

「毒の実なんだよ、きっと」

彼が以前、私の肩に腕を回してそう言った。

「食べたら病気になったり死んだりするんだ。あの方は僕たちの身体を案じて、食べちゃいけないって忠告してくださったんだよ」

「そうかしら」

わたしは見事な色艶の果実を見つめながら、首を傾げる。

「何かもっと秘密があるような気がするわ。わたしたちが知ってはならない恐ろしい秘密が」

「君は疑り深いね、エヴァ。あの方を信じないの?」

「信じる?」

信じるって何だろう、と、わたしは心の中で呟く。

何も考えずに言うとおりにすること? それが「信じる」ってことなら、わたしは誰も信じてない。あなたのこともね、アダム。

わたしは手を伸ばして彼の頬を撫で、キスをする。

「好きよ、アダム」

「僕もだよ、エヴァ」

「ずっと一緒にいたいわ」

「もちろんだよ。ずっと一緒だ。この美しい世界で」

「そうね。ずっとここで一緒に暮らすのね」

「そうだよ。この園にいれば、永遠に幸せに暮らせるんだ」

アダムの言ってることは本当だ。あの方の言いつけを守って従順に暮らしている限り、わたしたちは何不自由なく幸せな毎日を保証されてる。この園は美しく、食べ物も豊富で、わたしたちは何の危険にも晒されない。あの方が守ってくれているから、わたしたちは平穏な日々を送れるの。いつまでも、いつまでも、いつまでも……ああ、耐えられない!

わたしは時々、髪を掻きむしりたくなるような焦燥感に苛まれる。

だって、毎日毎日が同じ日々なのよ? 平穏だけど、同じ毎日の繰り返し。それって本当に幸せなの? ここは本当に楽園なの?

「アダム、あなたはこの生活に何の不満もないの?」

「不満? とんでもない。いったい何が不満なんだよ?」

「この園の外には何があるのかって考えたことない? 見たこともない風景や生き物に会えるかもしれない。そうよ、わたし見たいの。わたしたちの知らないいろんなものを……」

「園の外は危険だ。あの方がおっしゃってただろう? 危険な生き物が襲ってきたり、水も樹木もない大地で飢えや渇きに苦しんだり、いろいろな恐ろしい目に遭うんだぞ」

「それでもわたし……」

どこかに行きたい。ここを抜け出したい。

その思いは、日々、募るばかりだ。何故だろう。こんなに安全で幸せな日々なのに、わたしは何が不安なんだろう?

誰かが囁くのよ。ここにいると、おまえは腐ってしまうぞ、と。私の頭の中で、ずっとそいつが囁くの。そしてわたしは、ここから飛び出したい気持ちに駆られて、どうしようもない気持ちになるの。

「時々、君がわからない」

アダムがわたしの手を払いのけ、忌まわしい物を見るような目でわたしを見据えた。

「君は僕の肋骨から作られた。僕の一部なんだよ。なのに、僕には君が理解できない。自分の身体の一部とは思えない、ものすごく異質なものを感じるんだ」

「わたしもよ、アダム。わたしもあなたがわからない。自分がかつてあなたの一部に属してたなんて信じられないの。だって、わたしたちは全然違うわ。身体も思考も魂も」

「僕たちは一心同体のはずだろう?」

「違うわ。わたしたちは別人よ」

 

わたしはアダムの一部じゃない。わたしは、わたし。アダムとは別の人間よ。

あの方は、わたしを彼の肋骨から作ったと言った。それを疑うつもりはないけど、今のわたしは肋骨じゃない。誰かの肉体の一部ではない。わたしはひとりの人間なの。

「悩んでいるのかな、お嬢さん?」

突然、目の前の樹の中から声がした。

ぎょっとして見ると、茂った葉の間から長い生き物がにょろりと姿を現した。

「あなたは誰?」

「俺か? 俺は蛇だ」

「蛇? 初めて見るわ、あなたみたいな生き物。この園の生き物は全部知ってると思ってた」

「君の知らないことはたくさんあるさ」

蛇はせせら笑い、細い舌で果実をぺろりと舐めた。

「たとえば、この木の実。君はこれが何の実か知ってるかな?」

「知らないわ。食べてはいけないと言われてるし、何の実かも教えてもらってない」

「そうだろうよ。あいつは君たちに教えたくないんだ。知ったら食べたくなるからね」

「どうして?」

「これは『知恵の実』だ。これを食べると、君たちはもっと賢くなって、彼よりも力を持つようになるかもしれない」

「彼って……あの方のこと?」

「そう、君たちが神とか創造主とか呼んでいる奴だ。あいつは君たちを、この世界の生き物の中で一番賢く作った。でも、あまりにも賢くなり過ぎると、君たちは彼を脅かす存在になりかねない。だから彼は自分の知恵の一部を封印して、この実に閉じ込めたんだ」

その言葉は衝撃だった。あの方がわたしたちに禁じているもの……それが「賢さ」だなんて、思いも寄らなかったからだ。

なぜ、わたしたちは賢くなってはいけないんだろう? 今より賢くなったら、もっと快適な暮らしができる。そうよ、たとえ園の外に出ても、生き抜くための知恵があれば、怖いものなんかない。あの方の庇護がなくても、わたしたちは自由に生きられる。あれこれ禁じられたり命令されたりすることなく、どこへでも行けて何でもできるわ。私たちに、あの方は必要なくなって……そうか!

あの方が恐れているのは、それなんだ。わたしたちがもっと賢くなって、自分たちだけで生きていけるようになって、あの方を必要としなくなること。彼はそれが怖いんだわ。

わたしはずっと、わたしたちが一方的にあの方を必要とし、あの方に支えられて生きているのだと思ってた。でも、もしこの蛇の言うことが本当だとしたら、あの方もまたわたしたちを必要としているのだ。わたしたちを完全に支配し管理するために、わたしたちの信頼と崇拝を必要としている。わたしたちに裏切られたら、彼はどうするだろう? 恐ろしい復讐をしてくるのだろうか? でも、もしわたしたちが彼と対等に戦えるだけの知恵を身につけていれば、彼の復讐など恐れるに足らないのかも……。

「おお、いろいろと考えているな」

蛇は目を細め、満足そうに私を見つめる。

「いいことだ。自分の頭で考えること……それこそが君たちの特権であり、彼のもっとも恐れる行為だ。もっともっと考えるがいい。この実を食べればさらに賢くなって、より素晴らしい考えが閃くぞ」

「それはとても魅力的な提案だけど」

わたしは一歩下がり、小首を傾げて蛇を見返した。

「何故あなたは、そんな提案をわたしにするの? わたしがこの実を食べたら、あなたに何かメリットがあるの?」

「メリットねぇ……まぁ、君たちが賢くなっても、俺はべつに得はしないな。ただ、俺にとっては面白い展開になる。それだけだ」

「面白い展開?」

「やつの計画をちょっとばかり邪魔してやるのが俺の趣味なのさ。やつはこの世界の創造主だ。自分を全知全能だと思っている。その思い上がりが鼻につくんでね」

「思い上がり? だって彼が全知全能なのは本当のことでしょ?」

「どうかな。全知でも全能でもないかもしれない。だからこそ、君たちを恐れるんだろ? 本当に全知全能なら、怖いものなどないはずだ。無敵だからな」

蛇の言うことは正しいような気がした。確かに筋が通ってる。彼はわたしたちに自分が全知全能だと信じ込ませようとしてるけど、本当は違うのかもしれない。ただ、わたしたちを扱いやすい存在に留めようとしているだけなのかも。

ただ問題は、この蛇が何者なのかということだ。こいつの意図が、いまひとつ読めない。こいつは何故、わたしたちに創造主を裏切るよう唆すのか。こいつの口ぶりは、まるで全知全能のあの方よりももっと多くのことを知っているかのようだ。あの方より賢いものなど、この世界に存在し得るんだろうか?

「ねぇ、あなたは何者なの?」

もう一度同じ質問をすると、蛇は肩をすくめる代わりに首をゆっくりと振った。

「だから、俺は蛇だよ。さっきも言ったろ?」

「蛇なんて生き物、わたしは知らない。あなたが生き物なら、あの方に作られた存在よね? だってこの世界の生き物はすべて、あの方の被造物だもの」

「俺はあいつの被造物じゃない。俺はあいつと一緒に生まれた。あいつは世界を作ったが、俺は別の物を作る」

「何を作るの?」

「あいつに作れなかったものさ」

蛇は針のように細い瞳孔でわたしを見つめ、甘い甘い声で囁いた。

「さぁ、どうする? この実を食べて賢くなるか? このままやつに服従して、何も疑わず何も知らずに愚かな幸福に浸って生きるか? 決めるのは、おまえだ」

「わたしが決めるの?」

「そうさ、俺は誰にも何も命令しない。やつと違ってな。俺は支配するのではなく、選択肢を与える。だから、おまえが決めるんだ。自分で何かを選択するという行為を、今までおまえはしたことがあるか? 知性というのは、そのためにあるんだ。自分の行為を自分自身で決めるためにな」

「…………」

わたしはしばらくの間、木の実を見つめながら考えた。

自分がどう生きたいのか。

そして手を伸ばし、枝から木の実をもいだ。

「決めたんだな」

「ええ。自分で決めたわ」

そう答えて、わたしは果実にかぶりついた。瑞々しい甘い汁気が口の中いっぱいに広がった。