草地に戻ると、彼がいつものように眠っていた。穏やかな寝息を立てて、いかにも安心しきった子どものような顔で。

「起きて」

眩しそうに目を開けた彼の顔の前に、わたしは果実を差し出した。

「食べる?」

「ん? いつもの木の実じゃないな。何の実だ?」

「あの方に禁じられた木の実よ」

「まさか!」

彼はがばっと身を起こし、顔を引きつらせる。

「食べたのか? おまえはこれを食べたのか?」

「ええ。毒入りじゃなかったわよ。美味しかった」

「なんてことだ! あの方からあれほど固く禁じられた実を……」

「だから、食べたのよ。わかる? 禁じられたから食べたの。あの方がわたしたちに何を隠しているのか、それを知りたくて食べたのよ」

「恐ろしい女だ」

「そう? あなたに何と言われようと、わたしは反省もしないし後悔もしないわ。だって食べてよかったと思ってるもの。わたしは知ったのよ、あの方の秘密を」

「あの方に秘密など……」

「あるわ。これを食べれば、あなたにもわかる。これは『知恵の実』なの。あの方は、わたしたちが賢くなり過ぎるのを恐れて、この実を食べるなと命じたのよ」

「それを食べると……どんなことがわかるんだ?」

「あの方の秘密、世界の秘密、わたしたちの秘密よ」

わたしは彼に見せつけるように、大きく口を開け、果実をひと口かじってみせた。そして指先で口元を拭い、果汁のついた指を美味しそうに舐めた。

「ねぇ、アダム。この実の別名を知ってる?」

「知らない。さっき、これは知恵の実だと君は言ったが、また別の名前があるのか?」

「あるわ。『善悪を知る木の実』よ」

「善悪? それは何だ?」

「この実を食べると、善悪という概念を知るの。善悪というのは、そうね、ひらたく言えば『やっていいことと悪いこと』かな」

「やっていいことと悪いことくらい、俺にもわかる。禁じられた実を食べることは『やってはいけないこと』だ」

「何故、この実を食べてはいけないの?」

「あの方に禁じられたからだ」

「ほら、それよ!」

わたしは胸を張り、アダムに指を突き付けた。

「誰かに言われたから『やってはいけない』というのは、あなたに善悪を判断する能力がなく、言われたとおりにするだけだからよ。善悪を知るということはね、自分で善悪を決める自由を持つということよ。この実はわたしたちに、自己選択の自由と、それを実現できる知性を与えてくれる。だから、これは『知恵の実』とか『善悪を知る木の実』とかって呼ばれてるのよ」

「自分で善悪を決める……?」

「そうよ、アダム。これからは、すべて自分で決めるの。どこに住むか、何をするか、どう生きるか。あの方はそれを嫌うだろうけど、わたしは自分の意思で生きることに決めたわ。あなたがこれを食べなくても、わたしはここを出て行く。外の世界で自由に生きるの」

「外の世界は恐ろしいぞ」

「それが何? わたしはこの実を食べて、今までの自分がどんな生き物だったかを知ったの。わたしたちは、あの方に飼われている家畜よ。柵の中に閉じ込められて餌を与えられ、それで満足して何も考えず何も知らずに生きているだけ。わたしはそんなの嫌よ。ずっとずっと、それが不満だった」

「君は……」

「そう、もうひとつ言っておくけど、わたしはもうあなたのあばら骨なんかじゃないから! あの方の家畜でもないし、あなたの肉体の一部でもない。わかった?」

アダムはわたしの剣幕に驚き、すっかり言葉を失ったようだった。

でも、わたしのほうはその逆。言葉が後から後から溢れてくる。これが「知恵の実」の効果なんだろうか。今までずっと言葉にならずにもやもやと胸の中に溜まっていたものが、急にはっきりと見えてきて、それを言葉で表現できるようになった気がする。そう、誰かから吹き込まれたんじゃない、これはずっとわたしの中に埋もれていた言葉なの。

「アダム、自分で決めて」

わたしは果実を差し出し、きっぱりと言い放つ。

「これを食べてあの方から解放され、わたしと一緒に出て行くか。それとも、食べずにここに留まるか。それを選ぶのは、あなた自身なの」

「僕がここに留まることにしたら、君はひとりで出て行くのか?」

「そうよ」

「そうなったら、誰が君を守るんだ?」

「自分で自分を守るわ。守れなかったら死ぬだろうけど、それでもいいの。ここでぬるま湯みたいな暮らしに浸かっているよりはね」

「わかった」

アダムは頷くと、わたしの手から果実を取った。

「じゃあ、僕も一緒に行こう」

「いいの?」

「君の言う『自由』とか『自己選択』とかってよくわからないし、あの方の言いつけに背くのも怖いけど、でも僕は君と一緒にいたい。君がいなくなったら、ここは僕にとって楽園でも何でもなくなると思うから」

「アダム……」

「何が怖いのか、今、よくわかった。一番怖いのは、あの方でもなければ危険な世界でもない。君を失うことなんだ」

わたしはアダムを置いて行ってもいいと思っていた。自由への憧れは、それほど強いものだった。わたしはアダムよりも自分の欲望を選んだのだ。何の躊躇もなく。

なのにアダムは……何より神を畏れているはずのアダムは、わたしのためにすべてを捨てると言う。わたしと一緒にいるために。ただ、それだけのために。

これは何なの? 愛? 性欲? それとも所有欲?

わたしには、わからない。「知恵の実」を食べても、まだわからないことはたくさんあるんだ。だけど、わたしたちはそれをひとつひとつ解いていこう。そして、それを「言葉」にしていこう。それが、あの蛇にもらったヒントだ。自分の頭で考え、自分の言葉で表現することが。

アダムはしばし果実をしげしげと観察した後、思いきったようにそれを口に含んだ。

その瞬間、わたしたちの運命は決定したのだった。

「これはいったいどうしたことだ!」

わたしたちの姿を見るなり、あの方が呆れたように叫んだ。

「ふたりとも、何故、股間を木の葉で隠しているのだ? 昨日まで丸裸だったのに」

「恥ずかしいからです」

わたしが答えると、あの方は眉を上げた。

「恥ずかしい? 何が? おまえたち以外の生き物は皆、そんなところを隠してないぞ。恥ずかしいとも思ってない」

「それは彼らが恥という感情を知らないからです」

「そうだな。わたしはそのような感情を教えていない。おまえたちは、誰からそんな感情を吹き込まれたのだ?」

「誰にも吹き込まれてはいません。わたしは気づいたんです。自分が『見られている』ことに。今まで自分が誰か見られていることなんて気にしてなかった。でも気づいた瞬間、『恥ずかしい』という感情が生まれました。そして『隠さなくては』と思ったんです」

「そうして、おまえたちは『隠す』ことを覚えた。私の前に裸で出てくることを恥ずかしく感じるようになった。そういうことか」

「はい」

「おまえたちが何をしたのか、私にはわかったぞ」

あの方はわたしたちを見つめ、静かだけれども恐ろしい声で言った。

「おまえたちは、私が禁じたあの果実を食べたのだな? そうでなければ、他者の目を気にして恥ずかしがったり隠したりするはずがない」

「あれは『恥ずかしさ』を知る木の実だったのですか?」

「恥ずかしさだけではない。私が教えなかったいろいろな感情を、おまえたちの中に芽生えさせるのだ。いいか、よく聞け」

あの方は肩を怒らせて進み出ると、わたしとアダムを交互に指さした。

「他者の目を意識した瞬間、おまえたちは常に他者に裁かれ評価される生き物になる。恥ずかしさだけではなく、虚栄心や競争心や優越感や劣等感や……他者との関係によって生じるありとあらゆる感情を、おまえたちは味わうのだ。それがどれだけ苦しい地獄か、今にわかる。できれば私はおまえたちを、そんな生き物にしたくなかったのにな」

「他者の目を意識することは、そんなにいけないことなのでしょうか?」

「もちろんだ。おまえたちは他者を裁き、他者に裁かれる生き物となった。本来、『裁き』は神である私だけに許される行為だ。人が神のように他者を裁くことは許されない。だが、自意識という病を得たおまえたちは、他者を裁かずにいられないだろう。それが罪深い行為でなくて何なのだ」

蛇はわたしに、知性を得るということは自由を得ることだと言った。神の支配からの自由、自己選択の自由。だが、わたしたちはその自由と引き換えに、別の鎖に縛られたというのか。裁く神から解放された代わりに、互いに裁き合う存在となり、他者の視線に縛られる存在になった、と。

「おまえたちの食べた『知恵の実』は、諸刃の剣だ。知性はおまえたちを高めるが、おまえたちを苦しめる鞭にもなる。おまえたちはその知性で、同族を殺し合う武器すら発明するだろう。おまえたちはもはや、私の庇護を受けるべき生き物ではない。自分の意思で私の支配と庇護を拒絶したのだ。この楽園から出て行くがいい」

それからあの方は、長々と呪いの言葉を吐いた。

わたしたちはこの罪によって、これから苦しい人生を背負うだろう、と。

産みの苦しみや病の苦しみ、死の恐怖。庇護してくれる者も導いてくれる者もなく、不安な明日に向かって歩き続けていかねばならない心細さ。

それらはすべて、わたしたちが自分で選んだ道なのだ、と。

 

初めて園の外に出て広大な砂漠を目にした時のことを、今でも鮮明に憶えてる。

西も東もわからない。どこに向かって進んでいいのかもわからない。わたしは間違っていたのだろうか。あの果実を食べてはいけなかったのだろうか。自由と引き換えに失ったものは、あまりにも大き過ぎたのではないか。自由などというものは、本当に必要だったのだろうか。そもそも、そんなものは存在するのか。あの果実が見せた甘い幻想だったのではないか。

びょうびょうと吹く風が、黄色い砂を巻き上げて視界を覆う。砂嵐の向こうにある苦難や恐怖を想像して、わたしはひるんでしまう。

「行こう」

アダムがわたしの肩を抱いて促した。

「ためらっても後悔しても仕方ない。もう僕たちはどこにも戻れないんだから」

「そうね」

こうして、わたしたちはあてもなく歩き始めた。そして人間たちは今も、あてもなく歩き続けている。砂塵の果てに見えたような気がする自由や幸福という名の蜃気楼を目指して。

それが、わたしの犯した「原罪」なのだ。

(つづく)

 

中村うさぎ / 作家。1958年生。福岡県出身。同志社大学文学部英文学科卒業。OL、コピーライター、雑誌ライターなどを経て、1991年にライトノベル作家としてデビュー。「ゴクドーくん漫遊記」で人気を博す。ライトノベルを中心に作品を発表していたが、ショッピング依存症、ホストクラブ通いなどの浪費家ぶりや、自らの美容整形について赤裸々に書いたエッセイを発表。主な著書に、「私という病」「屁タレどもよ!」「人生張ってます 無頼な女たちと語る」他多数。twitter : @nakamurausagi

イラスト・こうき

アニメ・ふせんくん