「AIと仲良くしたい」

アデイの月曜担当、本多清寛です。

先日の二丁目寺ではAI(人工知能)についての話をしておりました。すいぶんSFチックな内容で、僕はわくわくしながら聞いていました。なんと、将来的には角砂糖一つ分のAIに、人類全員の知性が負けるって予想があるらしいんですよ。そんなAIができたら、すごい未来が待っている気がして胸が高鳴りますよね。

ただ、やっぱり良いことばかりではなく、AIによって仕事が奪われてしまうなんて懸念もあります。技術が進むことで失われた仕事はこれまでもたくさんあったので、仕事がなくなることについては仕方ないかもしれないですよね・・・。ただ、僕が嫌なのは、AIに仕事を奪われる人が悪いみたいな意見があることです。あれ嫌いなんです。単純労働しかできない人は努力が足りなくて、成功した人は努力の結果みたいな論調が嫌いです。

そもそもこの世は自業自得ですから、どんな労働をするのかは自分の行動次第です。それは間違いない。ただ、その労働の価値を判断する基準は、時代や環境、判断する人間によって変わります。努力の有無なんてものは、各々の感覚で決めることであって、他人が評を下すようなものじゃない。努力が可能だったのは、意思と環境が揃ったからなのに、努力できた人だけが偉いってのはちょっと暴論じゃないのかと思います。

あと、気になるのは「職業に貴賤なし」という言葉。どんな職業でも平等だという意味で使われる言葉です。でも、でも、、、深山幽谷にいる老僧と飲み屋でバイト中の坊主が平等に貴いとは感じないだろ! どんな嘘だよ!! ・・・と賤しい僕は思うわけです。

仏教的に説明してみると「どんな職業であっても、貴賤を判断する基準が変化するのだから、貴いとか賤しいという区別はその時々のもの。だから、根本的な貴賤は無い。」ということになります。僕の賤しさは、老師と自分を比べ、自分を卑下していることにあります。実際に貴い老師と賤しい僕という違いがあっても、できることは違いますから、それぞれに精一杯ならそれでいいわけです。

ただ、根本的には「貴賤なし」といえども、現実的には「貴賤の判断あり」です。普通に生きていれば、貴いものと賤しいものを区別して考えるからです。そんな時は、何が「貴」で何を「賤」としているのかを考え、判断している「私」は何者かに気が付く必要があります。

誰かに対し努力が足りないと感じるのは、努力することが当然だという意識があるからです。努力が環境によって可能になると考えていれば、また違う判断をするはずです。「努力は当然すべき」と判断している「私」に気が付くと、本当に当然なのかどうかを疑えるようになります。どんな「私」が判断しているのかに気が付くことは、他の判断ができる「私」を見つけることにつながり、他の判断があり得ると気付けば、他人を許すことができるようになります。そうすると、生きることがとても楽になります。

ともあれ、生きることが楽になっても、仕事がなくなれば生きること自体が難しいです。僕だって、お酒を飲みながら、愚痴を聞いてくれるAIが出来たらいらなくなるだろうし、釈迦AIとか出来たらどうすればいいんでしょうか・・・。やっぱり、ちょっと怖いのでAIと上手く付き合えるように、もうちょっと知っておきたいと思います。もし、何かご存知のようでしたら教えて下さい!

南無三。

 

本多清寛(しょうかん)和尚。(月曜担当)

1985年生まれ。熊本出身。お寺に生まれお寺に育つ。22歳の時、福井県の永平寺という山奥の修行寺で3年過ごす。修行仲間には相当な迷惑をかけ続けて山を下りる。その後、曹洞宗の研究センターにて仏教を学ぶ。同性婚の問題から、仏教と「性」について気になり、セクシュアリティについて勉強し始めた。生活に役立つ仏さまを模索している。趣味は「こんな時、お釈迦様ならなんて言う?」という大喜利。

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