伏見憲明の書評

中村うさぎ著 『月9 呪われた女たち』(小学館文庫)

 

『月9』という物語は、女たちの腹の底にある本音や毒を、これでもかというくらいに掻き出し、読み手の秘めた悪心を露にする合わせ鏡である。読者は軽妙な文章に心躍らせながらも、誘発される自分のなかの暗い感情にとまどうことになるだろう。しかし毒を持って毒を制する効果か、読後感は意外にさわやかで、胸に苦みが残らないエンターテイメンに仕上がっている。そんな作品を、分析的に解説するのは無粋なことではあるが、私なりの読み方を述べてみたいと思う。

 

誤解を恐れずに言えば、人間関係は、対等でなかったり、役割が決まっていたりするほうが、よほど思い煩うことがない。もちろん、上下関係は下位にあるものに負担を強いるし、固定的な役割分担はその役割に甘んじることができない者を排除する。しかし、その約束事を受け入れてしまえば、なんとかやり過ごせてしまう事実も否定できないのだ。だから、親子関係であれ、夫婦関係であれ、学校での先輩後輩であれ、会社での上下関係であれ……現実には、対等とはいえない関係のほうが一般的で、「上手く」いっているとさえいえる。

とはいえ、私たちはいまさら士農工商みたいな身分制度や、男ならこうしなさい!女ならこうしなさい! といった規範なんて、ごめん被りたい。自由を享受しつつも、ますます複雑に入り組んだ人間関係というものを生きざるをえないのだ。

なかでも友人関係ほど厄介なものはない。

恋人同士なら快楽や結婚を目標にすることができるし、夫婦なら子供をかすがいにすることもできる。しかし友だちとの関わりは、例えば、スポーツとか表現活動とか共通の目的でも持ち合わせないかぎり、個人的な情緒を介した選択的な結びつきにすぎない。そこには絶対的なルールもなく、頼りなく不安定なコミュニケーションがあるだけ。

ただし、男同士ならばまだ、社会的なポジションやら、能力による序列が、友情におけるさまざまなアンバランスを納得し、受け入れるための理由になる。男の子は本能なのか教育なのかはわからないが、子供の頃からヒエラルキーを作るのが得意だ。

一方女子は、階層的な集団を作らないがゆえに、より平等な関係性であるともいえるし、そこに生じる微細な力関係に始終、翻弄されることにもなる。

本書『月9』では、女性にとって女同士の関係がいかに困難であるのかが、グロテスクなまでに描かれている。ここに登場するのは、女性の社会進出が可能のなった世代の、それもまだまだ本当には男女同権とはいいがたい時代状況を背景にしたシングルウーマンたちである。脚本家という世間的に評価される仕事を持ち、男性に負けないプライドを持っている彼女たちは、上の世代の働く女性にレッテルされた「オールドミス」というありようとは対照的だ。「オールドミス」は、男性と同様の仕事を与えられることと引き換えに、エロス的な価値を剥奪された独身女性たちへの蔑称であり、同じ女性たちからも侮蔑された「女に非ざる女」であった。そうした先達のイメージへの反発や嫌悪もあってか、主人公の弓絵は、仕事の成功とは別に、男性から性的対象として求められることにも固執している。

「思わず、下腹部に視線を落とす。確かにスリムな体型ではない。だけど、デブと言われるほどでもないと思う。それにガリガリの痩せ型よりもこういうポッチャリ体型を好む男は、いくらでもいるのだ。現に、あたしは男にモテる。目鼻立ちがはっきりした美人顔で、肉付きもほどよくグラマーで、有名なお色気女優に似ていると言われたことが何度もある」

こんな文章に、弓絵のエロス的な自己像への強迫が示されているだろう。十分な成功を手にしているにもかかわらず、そうした賞賛だけでは満たされず、美的な身体に執着してやまない女心。

しかし性的な存在として価値を認められることは、イコール、男たちから承認を得ることであり、そのためには他の女性たちと競合関係にならざるをえない。そこに女同士の結びつきの難しさがある。弓絵は男社会の中で、男たちと伍して働き、勝ち抜きたいにも関わらず、男に性的対象として選ばれなければならないという矛盾を抱える。

男の場合なら、エロス的な価値は社会的な価値とも結びついているので、わざわざ女性に承認してもらう必要がない。見た目が悪くても、地位や財産のある男はそれだけで十分に女を魅きつけることができる。

反対に女性の場合、社会的な価値はエロス的な価値とは別であり、むしろエロス的な魅力を減じるような効果すら持ちかねない。自分より権力も能力も持っている女性に「萌え」る男性はまだまだ少ないのだ。だから、働く女たちは、職業人としての自分と、女としての自分に引き裂かれざる得えない。

もちろん、見方によっては、評価軸が二つあることは、可能性が二倍あることとも考えられる。男だったら、高学歴のコースをたどり高い地位を獲得したり、自分で事業を起こして資産を形成するなどの成功を収めることでしか、他者から承認を得ることはできない(とりわけ中年期以降は)。けれど女性なら、エリートコースを外れても、あるいは特別な才能に恵まれなくても、容姿端麗であれば、いくらでも社会階層を上昇することができる。美人に生まれれば、勉強ができなくとも(同性にも)女として憧憬され、男たちに求められることはご承知の通りだ。女たちに社会進出への道が開け、どちらの道も可能になった現在では、男たちよりも人生の選択肢は多いとも考えられる。

しかし、この小説に出てくる女性たちにはそのような余裕はない。仕事で認められても女として求められないのでは意味がない、という焦燥に痛ましいまでにつきまとわれている。これは、著者の中村うさぎの世代、男女雇用均等法が施行される前後に社会に出たキャリア志向の女性たちの感覚が強く反映されているのだろう。社会で男と同等に認められたいが、でも、やっぱり女性の拠り所はそのエロス性にある、というアイデンティティ。あるいは、サクセスを手にした女たちの実感は、男と同等になったからこそ、女性としてのアイデンティティが揺らぎ、エロス的な価値を神経症的に確認せずにはいられないものなのかもしれない。これは、仕事か主婦になるのかという二者選択に後ろ髪を引かれた世代の、肩肘はって生きてきたゆえの後遺症とも言える。

そして、そのような自意識を持った女同士が友情を育むことは簡単ではない。

弓絵はこんな感慨を心のなかに抱く。

「……あたしは女が嫌いだ。油断ならない、信用できない。男のほうが、ずっと付き合いやすいわ。単純な分、まっすぐで大らかで、竹を割ったようにサッパリしている。あたしも男性的で潔い性格だから、女同士でゴニョゴニョと群れているより、男たちとの忌憚のない付き合いをしているほうが合ってるの」

ミソジニー(女嫌い)は男ばかりでなく、女のなかにも深く刻印されている。人は自分のなかの見たくない性質を他人のなかに見いだしたとき、その相手をひどく憎む。それゆえ弓絵は自分と似たようなキャリア志向の女を毛嫌いする。

ライバルである晴子も弓絵に対してこんな気持ちを抱いている。

「私は本当に、弓絵と仲がいいんだろうか? 弓絵を嫌いになれないのは確かだが、それと同じくらい彼女を憎んでいるのも事実なのだ。嫌いじゃないけど憎んでいる……この矛盾した感情はいったい何なんだろう?」

さらに晴子は女性としてのアイデンティティ・クライシスを自己分析している。

「私も弓絵も、おそらく、少し頭がおかしいのだ。女として何かが欠損してて、それを『恋愛』やら『セックス』やらで埋め合わせようとしているのだが、結局はうまく噛み合う部品を見つけられずに放り出し、子どものように手足をバタつかせて転げまわっているだけなのだ」

こういう女たちは孤独だ。男には甘えたいが、彼らは油断できない存在としてあり続ける。そして、同性とはエロス的にも社会的にも競合しなければならない。ことほどさように、彼女たちは異性にも同性にも気が許せる友をなかなか見いだせない。
ちなみに、本作では描かれていないが、昨今では男に依らない人生を選んだ都会の女性には、たいていゲイの親しい友人がいる。ゲイは生物学的には男とはいえ、社会的には「できそこないの男」として差別されていて、女性と性差別を共有している。そして、エロス的存在としては、異性愛の男性をターゲットにできないがゆえに、女性と競合的な関係にはならない。だから、男性とも女性とも心から打ち解けられない『月9』の登場人物たちのような女には、心を許せる相手となることができるはずだ。

実際、著者の中村うさぎがゲイフレンドリーであり、ゲイの親友と結婚し、マツコ・デラックスなどのゲイたちと親しい交友関係にあることはよく知られている。

繰り返しになるが、対等な関係は誰にとっても難しい。男たちは上下関係に安易に乗っかり、力や利害を共にする相手を「友」と呼ぶ。男たちの視線によって「分割統治」されてきた女性たちは、エロス的な承認を求めるかぎり、弱き者としての女の紐帯を築くことも困難になる。ゲイ同士にしても、おのれのなかの同族嫌悪ともいうべきホモフォビア(同性愛嫌い)の介在によって、そうそう仲良くばかりはしていられない。さらに考えてみれば、女性がゲイに癒されるのも、ゲイが女性に安心するのも、多少なりとも、互いに相手を見くびっているところがあるからかもしれない。

そう、私たちは、対等ということがいまもって苦手なのである。いや、いい方を換えよう。まだ対等という方法を発明したとはいい難いのだ。私が私でありながら、あなたと同じ目の高さで向き合うのは生易しいことではない。

しかし活路がないわけではないだろう。それは、自らを相対化し、相手に対する想像力を働かせることによって開かれる。『月9』の終盤で晴子は、弓絵に対する気持ちをこんなふうに言葉にしてみせる。

「自分が相手より少しでも優越しているか、あるいはどこかで劣っているか、常に立ち位置を確認せずにはいられない卑しい性癖。フラットで平等な関係を築いているように見せながら、じつは心の中ではどろどろの争いを繰り広げている愚かな心根。これさえなければ自分たちは、どんなに心安らぐ友情を手に入れられるだろう。しかし、そんな平穏無事なぬるま湯のごとき友情など、私も弓絵もすぐに飽きてしまうに違いないのだ。私たちは闘犬、軍鶏だ。戦うことでしか、相手とのコミュニケーションを取れない。戦う価値のない相手には、最初から興味も関心も示さない」

この言葉に託された晴子の気持ちは、単なる憎しみではなく、やはり、友情としかいいようがない。猫の兄弟が本気で喧嘩しているように見えて実はじゃれ合っていたりするように、爪で引っ掻き合ったり噛み付き合うことも、一つのコミュニケーションであり、共感の形であるという気づきだ。

私たちの友情が本当の意味での対等性を実現するには、まだ当分、自分とも、相手とも悪戦苦闘するしかない。でも、いまのところは、暫定的に、コミュニケーションを継続する意志のことを「友情」と呼んでもいいように、本書の登場人物たちは教えてくれる。

(文庫解説)