We Will Rock Q  第3回「美輪(丸山)明宏」

ここに、美輪明宏について書かれた2冊の本があります。

ひとつは、複数の論者がそれぞれの専門領域から美輪明宏を論じたコラム集『美輪明宏という生き方』(青弓社、2000年)。

そしてもうひとつは、美輪明宏の親族や友人、知人、さらには美輪明宏本人をも含めた、およそ80人もの人々に取材を重ねて書き上げられた労作である評伝『オーラの素顔 美輪明宏のいきかた』(豊田正義:著、講談社、2008年)です。

この2冊を併せて読んでみると、ある興味深い事実に気づかされます。

それは、美輪明宏が自身の同性愛を初めて公言した年代には、二つの説がある、ということです。

まず『美輪明宏という生き方』のほうでは、松本郁子によるコラム『少年神から観世音菩薩へ』の中に、<デビュー当初からホモセクシュアルであることを公言している>(56頁)という記述が出てきます。その他にも、日本のトランスジェンダーの社会・文化史研究の第一人者である三橋順子による論考『美輪明宏と女装』の中にも、<デビュー当時から恋人は男性と公言し、「ホモ・セクシュアルの市民権」を主張してきた美輪>(222頁)という記述が見られます。

一方、評伝『オーラの素顔』のほうでは、次のように書かれています。

<美輪は「丸山明宏」の名前でデビューを飾り、「シスターボーイ」と呼ばれるユニセックス・スタイルで一世を風靡したが、さすがに新人の頃は同性愛者であることを公言しなかった。しかし、後述する『ヨイトマケの唄』のヒットと、舞台『黒蜥蜴』の成功によって、歌手として、そして俳優として芸能界で不動の地位を築き始めた一九六〇年代後半からは女装でマスメディアに登場するようになり、自身が同性愛者であることを公表し始めた。同性愛体験を赤裸々に描いた『紫の履歴書』を一九六八(昭和四十三)年に上梓したのを皮切りに、テレビ・ラジオ・雑誌などで同性愛体験をしゃべり続けた。>(80頁)[註:太字は引用者による]

このように、美輪明宏が自身の同性愛を公言するようになったのは、デビュー当時からという説と、自伝『紫の履歴書』が上梓された1960年代後半からという説と、二つの説があるのです。

その『紫の履歴書』が上梓された翌年、つまり、1969(昭和44)年の『週刊現代』10月23日号には、「ホモがどうして悪いの」という小見出しに続けて、丸山(美輪)明宏の性的指向について、次のように書かれています。

<芸能界はいま、ホモやレズが常識になった観さえある。別れた夫について「ホモやったんや」と告白した歌手もいるし、ピーターという美少年が異常にもてはやされたりしている。

芸能界ばかりでなく、同性愛は一般社会にもひろがって、「もはやこれを、異常性愛ときめつけるのはまちがいである」と主張する人も少なくない。

だが、そのくせ、現実においては、ホモでありながら、ホモだといわれることをだれもが恐れる。ホモの烙印を極度にいやがり、つねに警戒する。

そんななかで、「私はホモです」と宣言しているのは、おそらく丸山明宏だけであろう。もっとも彼は「メケメケ」がヒットして”神武以来の美少年”といわれる前から、ホモだとうわさされてきた。また、これまで彼について書かれた記事を読むと、じかに「あなたはホモですか」とたずねられるたびに、丸山は「それはあんた、有名な話よ」と軽く受け流している。

だが、自分の口から、はっきりホモだといいきったことはない。その彼が、ホモであることをむしろ誇らしげに語るのも、流れだろうか。>[註:太字は引用者による]

確かにこれを読む限りでは、評伝『オーラの素顔』が書いているように、これはあくまでも大衆の側の認識ですが、美輪明宏が<「私はホモです」と宣言>するようになったのは、自伝『紫の履歴書』を上梓したあたりからであるらしいことがうかがえます。

ただ、この記事でもう一つ注目しておきたいのは、これよりも前の美輪明宏が、では自身の同性愛を否定していたのかというと、実はそうではないことも、同時にうかがえるという点です。

この記事によると、美輪明宏は既にこれよりも前から、<ホモ>であるかどうかを問われてきており、そのたびにこれを否定するのではなく、<軽く受け流し>てきた、とされています。

この記事に引用(?)されている「それはあんた、有名な話よ」という<受け流し>の言葉は、実は自身が<ホモ>であることを、決して否定はしていないのです。

とはいえ、少なくとも文言上に表れている情報のみで判断すれば、こうした美輪の<受け流し>は、<ホモ>だという噂の存在を、本人も認めているに過ぎず、自ら明言しているわけではないことも、また事実です。

だからこそ、この記事では、<自分の口から、はっきりホモだといいきったことはない>、としているのです。

それでは、肝心の美輪明宏本人は、自身の同性愛を初めて公言した時期を、いったいいつごろとしているのでしょうか。

美輪明宏の著書『乙女の教室』(集英社、2008年)には、次のような記述が出てきます。

<「ようやく時代が美輪さんに追いついてきましたね」

今から50年以上も前にホモセクシュアルであることをカミングアウトしたことや、元祖ビジュアル系としてデビューしたことから、みなさんはそんなふうに言ってくださいます。>(201頁)[註:太字は引用者による]

この『乙女の教室』が出版されたのは2008(平成20)年です。つまり、<今から50年以上も前>というのは、1958年よりも前、ということです。

美輪明宏が、コロムビアから「メケ・メケ」でレコード・デビューを飾ったのは、1957(昭和32)年。つまり、本人の言に従うなら、美輪明宏はデビュー当時からカミング・アウトしていた、ということになります。

本人がこのように述べている以上、これこそが定説であってもいいはずなのですが、ところがしかし、そうはなっていません。それはいったいなぜなのでしょうか。

実は、存命中の人物が、自身のこれまでを振り返って書いた文章の中には、その時代には存在していなかったはずの、現代の新しい概念が、いつの間にか混ざってしまっていることが、しばしばあります。

先に引用した『乙女の教室』の場合、<今から50年以上も前にホモセクシュアルであることをカミングアウトした>とありますが、しかし1950年代の日本に、カミング・アウトという言葉と概念は、存在していません。

カミング・アウトという概念が、英語圏で生まれ、そして世界に広まっていった背景には、1960年代から70年代にかけてのゲイ解放運動や、80年代から90年代にかけてのエイズ・パンデミックといった、英語圏の同性愛者を取り巻く社会情勢の変化が、大きく関わっています。

つまり、それまでは社会的に隠れた存在であった同性愛者が、自らの意志で表に出てこなければ、既存の社会に対して当事者側からの問題提起ができない、そのような性質のトピックが、英語圏社会では人権問題として大いに議論されるようになり、それに伴って、自身の性的指向を明かすという、それまではパーソナルな行為であったものが、対社会的な意義も有するようになった、そうした変化の歴史が、カミング・アウトという言葉と概念が広まっていった背景にはあるのです。

したがって、美輪明宏が歌手デビューをした1950年代に、はたしてカミング・アウトの概念があったのかといえば、少なくとも日本にはまだなかったはずです。

これまでに紹介してきた、デヴィッド・ボウイやエルトン・ジョンのカミング・アウトは、アメリカのゲイ解放運動の原点とされている、1969年のストーンウォールの反乱よりも後のことです。

前回でも紹介したとおり、エルトン・ジョンの1976年のカミング・アウトは、「あなたはバイセクシュアルなんですか?」という問いに、イエスかノーかではっきりとは答えていません。またデヴィッド・ボウイのように「僕はバイセクシュアルだ」と言い切ってもいません。

つまり、自身の性的指向を明言はしていない、実は遠回しな告白であったのです。

しかしそれにもかかわらず、エルトン・ジョン本人も含めた米英のほとんどの人々が、これをエルトン・ジョンのカミング・アウトの瞬間だと解釈しており、それが定説となっています。

その理由は、当時の米英には、既にカミング・アウトという言葉と概念があったからです。

カミング・アウトという言葉は、「クロゼットの中から出てくる」という言い回しに由来しています。したがって、エルトン・ジョンのカミング・アウトのように、たとえ自身の性的指向を明言はしていなくても、それは必ずしもカミング・アウトの概念から外れているわけではありません。

ここで話を元に戻すと、先に引用した『週刊現代』の記事が書かれたのは、奇しくもアメリカでストーンウォールの反乱が起こったのと同じ、1969(昭和44)年です。その記事が書かれた当時の美輪は、<ホモであることをむしろ誇らしげに語る>ようになったと、記事の中では評されています。

そして、自身の同性愛体験を綴った『紫の履歴書』が上梓されたのは、その前年の、1968(昭和43)年のことです。

ということは、美輪明宏が自身の同性愛を<誇らしげに語る>ようになった時期というのは、これはまったくの偶然なのですが、アメリカのゲイ解放運動に本格的に火が着いて、それに伴ってカミング・アウトの概念も徐々に全米に広まり出した、その前後だったのです。

それよりも前の美輪明宏は、<自分の口から、はっきりホモだといいきったことはない>が、しかし<ホモ>かどうかを問われれば、「それはあんた、有名な話よ」と<軽く受け流して>いた、とされています。

同性愛者であることを明言はしないが否定もしないという、この<受け流し>の態度は、実はエルトン・ジョンの場合も同様であったことを考えれば、これを美輪明宏のカミング・アウトであったと解釈することも、確かに充分可能ではあるのです。

しかし、先にも述べたように、それはあくまでも後年の解釈であって、当時からそのように受け止められていたわけではないのです。

結局、『紫の履歴書』が書かれるより前の時期の<受け流し>の態度を、どのように解釈するのか。自身を同性愛者だと「明言」はしていないが、しかし同性愛を「公言」はしている、そう解釈するかどうか。これは論者によって見解の分かれるところとなります。

そうした見解の違いがあるために、美輪明宏が自身の同性愛を初めて「公言」したとされる時期は、デビュー当時からという説と、『紫の履歴書』の上梓あたりからという説と、この二つの説が並存することになるのです。

ただし、これは二つのうちのどちらかが間違っているということではありません。

どちらの説を採ろうとも、1950年代の美輪明宏が、自身の同性愛を否定はしていなかったことに、違いはないからです。

いちばん肝心なのは、この点です。

否定はしないというだけであっても、これは充分に、同時代の英語圏の歌手にも類例が少ない、実に先駆的で、実に勇敢な態度であったのです。

美輪明宏は、自身の同性愛を公に”認めていた”歌手の、先駆の一人です。

その事実に変わりはありません。

性的少数者を取り巻く社会事情や文化事情は、時代の推移に連れて、時々刻々と変化しています。したがって、美輪明宏のように半世紀を越える長大なキャリアをもつ人物を、現代の新しい概念に当てはめて測ろうとしても、その解釈には、必ずどこかで齟齬が生じます。

美輪明宏が、アメリカのゲイ解放運動にも先立つ1950年代に、自身の同性愛を”認めていた”ことの先駆性は、カミング・アウトという現代の新しい概念だけでは、測ることができないのです。

 

それ以外にも、たとえば、美輪明宏の性的アイデンティティは、はたしてゲイなのか、それともMtF(Male to Female)のトランスジェンダーなのか、そこのところが今ひとつ曖昧でわかりづらい、と感じたことのある人も、実は少なくないように思います。

しかし、そのわかりづらさというのも、結局は現代の「LGBT」という新しい概念を基準にして、1950年代に青春時代を過ごした人物の性的アイデンティティを測ろうとするからそうなってしまうのであって、つまりはこれも、解釈の齟齬なのです。

このことを実にわかりやすく解き明かしているのが、冒頭で紹介した『美輪明宏という生き方』に収録されている、三橋順子によるもう一つの論考『美輪明宏の女性観・性愛観――ミソジニー(女性嫌悪)説をめぐって』です。

この論考で、三橋順子は、美輪のインタヴューや対談記事での発言を基にして、美輪の性愛観が実はMtFのトランスジェンダーに近いことを論証していきます。それと同時に、

<美輪の場合、一方でみずからをホモセクシュアルと規定した発言もあるので、単純ではないのだが、それはどちらかというと政治的な発言、つまり「ホモセクシュアルにも市民権を」的文脈で語られていることが多いように思う(たとえば「婦人公論」一九七五年六月号)。>(90頁)

とも指摘して、<そのセクシュアリティのありようは複雑>であることを明らかにした上で、この論考の終章に、次のように書いています。

美輪が性的なアイデンティティを形成した一九五〇年代には、トランスジェンダーなどという概念はまったく存在しなかった。存在したのは、同性愛とトランスジェンダー的な要素が渾然一体となった「ゲイ」という概念(現在のゲイよりもあいまいで広い概念)だけであった。したがって、美輪はそれに性的なアイデンティティを求めるしかなかったのだと思う。もし、当時の美輪の前に、同性愛と並んでトランスジェンダーやインタージェンダーという概念も用意されていたら、美輪のアイデンティティ選択は、はたしてどのようになされただろうか。>(92頁)[註:太字は引用者による]

このパラグラフの内容は、極めて重要です。つまり、美輪本人の語りの中に出てくる<ホモセクシュアル>の概念は、実は、現在のゲイという概念とは必ずしも同一とは限らない、ということなのです。

そして、美輪のデビュー当時の日本の同性愛文化もまた、美輪の性的アイデンティティと同様に、<同性愛とトランスジェンダー的な要素が渾然一体となった>ものであったのです。

三橋順子の著書『女装と日本人』(講談社、2008年)によると、1950年代の日本のゲイバーは、デビュー当時の丸山(美輪)明宏がまさにそうであったような、メイクを施した中性的な美少年が接客をする営業が主流でした。

現代のゲイバーは、どちらかといえば男性同性愛者同士の出会いと交流の場という性質が強く、ニューハーフや女装者が接客をする、いわゆる観光バーとは、客層の違いに基づく住み分けが行われています。

しかし、50年代当時のゲイバーは、むしろ現代の観光バーに近く、現在のような住み分けのない、まさに<同性愛とトランスジェンダー的な要素が渾然一体となった>世界であったのです。

丸山明宏も、プロの歌手として1952(昭和27)年にシャンソン喫茶「銀巴里」(当時はキャバレーとして営業)のステージで歌うようになる前は、現在の銀座四丁目にあったゲイバー「ブランスウィック」で接客をしていた時期がありました。

そして、当時の丸山のように、メイクを施してゲイバーで接客に従事していた中性的な美少年たちは、ゲイボーイと呼ばれていました。

もちろん、このゲイボーイという言葉の「ゲイ」も、現代のゲイとは概念の異なる、同性愛とトランスジェンダーの概念がまだ分化をしていない状態の「ゲイ」です。

三橋順子の『女装と日本人』では、1950年代当時のゲイボーイは、次のように描写されています。

<当時のゲイバーは、丸山のような美少年系のゲイボーイがほとんどで、洋風の店ならアロハシャツに細身のズボン、和風の店なら着流しの着物に薄化粧といった中性的な容姿が主流で、そこに少数の女装するゲイボーイが混じるという状況でした。>(92頁)

ちなみに、丸山明宏が1957(昭和32)年に「メケ・メケ」でレコード・デビューを果たした際のキャッチフレーズ「シスターボーイ」は、ゲイボーイという言葉を大衆向けに言い換えたものだと思われているような節もありますが、実はそうではありません。

「シスターボーイ」という語は、丸山のレコード・デビューと同年に日本でも封切られたアメリカ映画『お茶と同情』の劇中の台詞にも用いられている、れっきとした英語です。

『お茶と同情』の主人公の少年は、同性愛者であることが暗示的に描かれているのですが、その少年のことをいじめる同級生たちが、少年に向かって投げつける侮蔑の言葉こそが「シスターボーイ」なのです。日本語に訳すと「おとこおんな」とでもいったようなニュアンスの、本来は蔑称です。

その蔑称が、どうしてデビュー当時の丸山明宏のキャッチフレーズになったのかというと、それは評伝『オーラの素顔』によると、どうやら『お茶と同情』の宣伝、話題づくりの一環であったようなのです。同作の配給元であった、MGM日本支社の当時の宣伝部長の、井関雅夫という人物が、その仕掛け人です。

井関の狙いは、流行語を作り出すことによって、映画への興味を惹起させるというものでした。そこで井関が着目したのが、「シスターボーイ」という劇中語だったのです。

本来は侮蔑語ですが、井関は自ら東京のゲイバーをはしごして、当時のゲイボーイたちに「シスターボーイ」という言葉の語感をリサーチしたのだそうです。返ってきた反応は「セクシーできれい」と概ね好評であったので、井関は『お茶と同情』の日本語字幕も、「シスターボーイ」を「おとこおんな」とは訳させずに、あえてそのままカナ表記で通させたのだそうです。

そして井関は、この「シスターボーイ」という言葉の語感にぴったりの個性をもった歌手の存在を知ります。

それこそが丸山明宏、後の美輪明宏であったのです。

コロムビアから丸山のレコード・デビューが正式に決まると、コロムビアのプロデューサーに友人がいた井関は、映画のヒットを目論んで、丸山に「シスターボーイ」のキャッチフレーズを被せたのだそうです。

こうして丸山明宏は、「シスターボーイ」のキャッチフレーズでレコード・デビュー。そして井関の狙いどおりに「シスターボーイ」は流行語となり、折からのシャンソン・ブームとも相まって、丸山明宏は一躍、時の人となりました。

『女装と日本人』によると、この「シスターボーイ」ブームがきっかけとなって、当時の日本のマスコミは、こぞって東京都内のゲイバーやゲイボーイたちを週刊誌などで採り上げ、これによってゲイブームとも呼ぶべき現象が起こり、都内のゲイバーはその数が急増したのだそうです。

丸山明宏の登場が、当時の日本のゲイ文化に及ぼした影響は、かくも巨大なものであったのです。

こうした社会的な影響だけでなく、丸山のデビューがきっかけで起こったこのゲイブームは、当時「ゲイ」であることに悩んでいた、ある少年のその後の生き方にも、大きな影響を与えています(この場合の「ゲイ」も、やはり同性愛とトランスジェンダーの概念が分化をしていない状態の「ゲイ」です)。

後に、女装のゲイボーイからタレントへと転身して大きな成功を収め、その分野の草分けとなった、カルーセル麻紀は、10代前半のころに、当時の日本のマスコミを賑わせていたゲイブームを通じて、丸山明宏の存在を知り、丸山に憧れてゲイボーイを目指したことを公言しています。

当時は、インターネットはおろか、紙媒体のゲイ雑誌ですら、商業誌としてはまだ存在していなかった時代です(会員制の同人誌は、既に50年代から存在していましたが)。したがって、ゲイバーのある都会からも遠く離れた地域に暮らしていた、当時まだ10代の「ゲイ」の少年が、同性愛についての知識を得られる手段は、非常に限られていました。

そんな時代に、マスコミの寵児となった丸山明宏は、まだ10代前半だったころのカルーセル麻紀のような、「ゲイ」という言葉や概念があることすらも知らないで、自身の同性愛にたった一人で悩み続けていた少年にとっては、福音にも等しいような存在だったのです。

カルーセル麻紀は、2002年の自伝『私を脱がせて』(ぶんか社)の中で、丸山明宏の存在を初めて知ったときのことを、次のように記しています。

<そんなとき出会ったのが、三島由紀夫の『禁色』という小説と「メケメケ」ブームを起こした丸山明宏(現在の美輪明宏)さんでした。『禁色』で同性愛という世界を知り、また「メケメケ」ブームでシスターボーイ、ゲイボーイたちがマスコミにもてはやされていることを知ったのです。

それらは私にとって闇夜で見つけた一筋の灯明のようでした。まさしく目の前が急に明るくなった感じ。だって、私みたいな人がほかにもいることがわかったんですもの。>(97頁)

こうしてゲイボーイとなったカルーセル麻紀は、やがて主流の芸能界へと進出して、ダンサーや女優、そして歌手としても活躍を始めますが、それらについての詳しい話は、いずれまた別の回にしようと思います。

さて、「シスターボーイ」として一大ブームを巻き起こした丸山明宏は、しかし1960年代の前半には低迷期を迎えてしまいます。が、1965(昭和40)年に、自作曲「ヨイトマケの唄」を発表(レコード発売は1966年)。この大ヒットによって、丸山は芸能界の第一線にカムバック。その後も次々と自作のメッセージ・ソングを発表し、その歌声を通じて、社会的弱者を擁護し、差別や偏見と闘う姿勢を、鮮明に示していくようになります。

1968(昭和43)年の自伝『紫の履歴書』も、そうした文脈のもとに著されたもので、「ヨイトマケの唄」を始めとする数々の自作のメッセージ・ソングの背景が詳らかにされている他、自身の同性愛体験についても、当時の基準としては赤裸々に、これを綴っています。

そうした丸山明宏の変化を、アメリカのゲイ解放運動の元年ともいえる1969(昭和44)年の『週刊現代』の記事が、<ホモであることをむしろ誇らしげに語るのも、流れだろうか>と評したのは、既に紹介したとおりです。

丸山明宏が、自身の同性愛を<誇らしげに語る>ようになったのも、そして同時期のアメリカでゲイ解放運動が本格的に始まったのも、これらは等しく、時代の流れがもたらした、時代の変化を告げる大きなマイルストーンであったのです。

(文中敬称略)

 

【参考文献】

『美輪明宏という生き方』(鎌田東二ほか:著、青弓社、2000年)

『オーラの素顔 美輪明宏のいきかた』(豊田正義:著、講談社、2008年)

『乙女の教室』(美輪明宏:著、集英社、2008年)

『女装と日本人』(三橋順子:著、講談社、2008年)

『私を脱がせて』(カルーセル麻紀:著、ぶんか社、2002年)

『紫の履歴書』(美輪明宏:著、水書房、1992年)

 

藤嶋隆樹

1972年、神奈川県生まれ。大学在学中の1995年に、耽美小説誌『小説JUNE』で小説家デビュー。1999年にはゲイ雑誌『さぶ』にも作品を発表。2001年にゲイ雑誌『G-men』の第8回ジーメン小説グランプリで優秀賞を受賞。2000年代後半からは古今東西のさまざまなLGBTミュージックを紹介するサイト『Queer Music Experience.』を運営。

 

イラスト・こうき