伏見憲明の書評

北原みのり・佐藤優 『性と国家』(河出書房新社)

 

本書は作家の北原みのりさんと佐藤優さんによる対談集。よく知られるように、前者は、経営するアダルトショップにわいせつ物を陳列した疑いで略式起訴され、後者は、政争がらみで逮捕され長く拘留された経験がある。

北原さんは逮捕された体験によって、それまで性をテーマに執筆していたにもかかわらず、「私」について書けなくなってしまったという。起訴の件も、反権力や女性の権利の文脈でいくらでも語ることができるはずなのに、「そのどこに『私』があるのか、みえなくなった」。佐藤さんも、起訴猶予になって緊張が解けたとたん、国家権力やマスコミに恐怖を感じるようになる。権力というのは、ふだんは見えないが、一度現れると、自分の境界線を侵犯するかのような力として迫ってくるのだろう。

お恥ずかしい話だが、筆者も、営業しているバーでAVを流したとがで通報され、警察に呼び出されたことがある。性器が露出していない「表」の作品だったので、まーいっか、と気楽に考えていたのがマズかった。結局、注意と始末書で済んだのだが、初めて、自分そして性の外縁に権力の存在を切実に感じたのだった。ゆえに、彼らの恐怖をいくばくかは想像することができる。性の輪郭は、権力の線引きによって形づくられ、むしろ権力こそが禁忌を境界に性を象っているのかもしれない。

そういう権力とのギリギリの関わりを経た北原さんと佐藤さんが、ここでは性やフェミニズムについて誠実に語り合って行くのだが、話題の中心は、売買春。それが是か非か、というのは古くて新しいテーマであるが、従軍慰安婦の問題から現代の性風俗まで、北原さんの批判は手厳しい。「…自己決定の枠組みで売春を語ることの乱暴さが問題です。日本軍『慰安婦』にも自由意志で行なった人がいたことを、日本軍や日本政府の免責のように語る人が途絶えないことに、問題の根深さがあります」

キリスト者でもある佐藤さんも、「世の中にはやってはいけないことがあるんですよ。なぜやってはいけないかって、やってはいけないからやってはいけないんだ」と金銭を媒介とする肉体関係には反対の立場を表明する。そして、セックスワークとして売春を肯定しようとする向きの「自己決定論」を仮想敵にする。

はたして、自己決定とは何か。私たちは自分で選択しているつもりになって、そのことによって実は、自己責任だけ負わされているんじゃないか…というのがこの本の言わんとする第一だろう。私たちは大きな構造のなかで、圧倒的な力に方向づけられている存在にすぎず、そこには自分の自由意志などないのだ、と。

北原さんは訴える。例えば、家に居場所がない少女が、年配男性に空腹を満たしてもらい、でも最終的には見返りにカラダを求められた。一つ一つの場面でいえば、少女は自己決定しているように見えても、はたしてそのような環境に置かれた子供が自分で選択したなどということができるのか。慰安婦問題と同様の構造的な錯誤がそこにもあるというわけだ。

先の逮捕劇で、大きな権力の前に「私」なんてどこにあるのか? という疑問を強くした北原さんの実存と結びついた世界像は、読み手に説得力を持ち、その理解は間違ってはいない。

しかし一方で、そういう構造を俯瞰し、売買春や性風俗を否定する価値判断をしているのも、また北原さんという「私」でしかないのも事実。良し悪しを分別している、言い換えると、自己決定しているのが北原さんだとしたら、他者の自由な意志や決定も想定しなければ理屈に合わない。それぞれにどの程度の妥当性があるのかはともかく、自由な意志を持つのは北原さんだけの特権ではないのだから。

だとすれば、結局、自己決定を可能にするより良い条件を考えていくしかないだろう。

そう、議論はまた振り出しに戻るのである。

(初出・現代性教育研究ジャーナル)