「パヨクのための映画批評」4

怖さと向き合う~「ザ・リング」(”the Ring”、アメリカ、2002年)~

ちょっともうパヨパヨ暴れすぎて私も疲れたので、今回、パヨクは鳴りを潜めます。箸休めに、21世紀に入ってから北米で広まった、「黒髪の長髪女が白い服着てうろつく」系ホラー映画の一つ、「ザ・リング」について考えたいと思います。

どうしてそうなのかぁ?イデオロギーから逃れてホラーに走ったからよ!!ホラーの世界にはイデオロギーなんかない!あるのは力と勇気のみ(結局権力かよ)!

ところで、日本では「アメリカのホラー映画は全然怖くない」とよく耳にします。日本のじめーっとした幽霊の方が怖い、と。これって何でしょうね?

雑に言うと、このギャップの問題は、妖怪のせいではなく、「アジア:幽霊が怖い」VS「欧米:悪魔が怖い」の想像力の違いのせいじゃないかしら。

ちなみに、90年代ってアメリカホラーは全然パッとしなかったと思うの私だけ? 人をびっくりさせる系(「スクリーム」とか)に走って、私の好み…80年代のような「一瞬で食欲失う汚い画面」…を止めてスタイリッシュしてた時代だもんね。

90年代が終わる頃、「リング」(1998年)、「呪怨」(2000年)、「The EYE」(2002年)等のアジア系女幽霊映画が続々北米で話題になり、リメイクされていきました。そう言えば1999年の新鮮ホラー「シックス・センス」監督もインド系。そして今や、数多くのアジア出身の監督がホラー映画のみならず、たくさんの作品をハリウッドで撮っています。そういったアメリカの中でアジア系の存在感が増した時代を象徴する作品が「ザ・リング」なんじゃないかしら。

元々は鈴木光司さんが書いた「不幸の手紙」の90年代版で、7日間でVHSビデオの呪いの謎を解かなければ死ぬっていうやつ(迷惑な話)。そんな本来ミステリー色が強い原作を怪談として脚色したのが日本の「リング」。超有名な「テレビから這い出てくる黒髪・長髪・白い服の女」という、原作にはない映画独自の表現で貞子像を決定づけます。

これに目を付けたハリウッドがリメイクするまでわずか4年しか経過していません。グローバル化に乗り、貞子ウイルスがパンデミックしていくわけです。するとさ、日米の「リング」を観比べたくなるわけですよ。

アメリカ版の貞子に当たる「サマラ」という少女は養子であり、子供の頃から邪悪なことをした超能力少女という設定です。対する原作・日本版は、三宅島の本当の両親の下で生まれ育ったただの超能力少女(ただのって…)。

余談だけど、超能力少女ってアガる…私、昔から超能力・オカルト少女に憧れていたの(やっぱ力を欲してたんだな!!)。「フェノミナ」「キャリー」「エスパー魔美」「炎の少女チャーリー」「ポルターガイスト」・・・あー神秘的な瞳の少女になりたかった…最近で言えば「ストレンジャーシングス」ってドラマの丸刈りータ少女! 私の忘れていた子供時代がYesterday once moreしちゃうEvery シャララララ… Every ウォウウォウ…

おい!正気に返れ(ボグッ!!)!

この設定の微妙な変更(貞子ウイルスの突然変異)によって、「世を恨み、非業の死を遂げて化けて出てきた貞子」というアジアでは比較的スタンダードな女幽霊は、「出自が不明で本性が知れない」=「悪魔の申し子なサマラ」と進化しました。

上記の対立軸(幽霊VS悪魔)を以てアメリカホラー映画を観て行くと、背後に「悪魔」を介入させている作品が多いことに気が付きます。逆に悪魔取り去ると、ただのサイコパス少女映画になっちまう作品が「エクソシスト」(1973年)。でもね、私はそのスキがとても怖いの。あくまで悪魔ではなく。あくまで!

怖さと向き合うということは、自分のルーツを知ることでもある…今夜もネットで音声読み上げ現代日本の怪談を聴きましょう…日本文化の神髄がそこにあるはずです。

追記:これを書いた後に日本版「リング」を見直したら、私の記憶違いがありました。日本版「貞子」も不可解で正体不明の超能力少女として描かれていました。純粋に「非業の死を遂げた女」だったのは原作の方。間違えた! 別の言い方をすれば、そういう「性根の悪い少女」の描き方をした映画だったのを、アメリカ版では一層強調した形なのでしょう。

 

執筆者・竹美

ほぼカムアウト状態の会社員。九州のパヨクな家庭に育ち、パヨク思想に染まっていることに無自覚なまま二十歳を迎え、周囲の同級生が順当に就職活動を開始した頃、全然やる気になれず焦って大学院へ逃亡。それが、「企業=金儲け=巨悪」だと信仰していたためだと自覚したのはその10年後。「思想転向」のリハビリ過程で、「真っ先に悪を告発する紅衛兵」の素養を小学生位のときに発揮して同級生にウザがられていた記憶もフラッシュバック。

このコーナーでは、映画を通じて「私やあなたというパヨク」の滑稽で哀しく、正しくて誤っている物語を発見していきたい。