「パヨクのための映画批評」6

サベツは私たちの心の中に~「おくりびと」(日本、2008年)~

♪サベツの歌が~聞こえて来るよ~ゲロゲロゲロゲロクワックワックワッ!!!

ここで一つ、アデイらしく、パヨクのみんなが人生の意味見出す勢いでまくしたてる話題、「日本のサベツ」について考えてみましょう。その題材として、あたしですら泣いた日本映画、「おくりびと」を血祭り・・・いえ、分析してみたいと思います。あー私書きながら革命の予兆に胸が震えている。

都会でチェリストの仕事をクビになり、美しく献身的な妻と共に田舎の実家に引っ込んだ男。そこで出会った「変な仕事」が、男の人生の新しい扉を開く。

私、先に言っておきますけど、この映画、大好きなんです。すばらしい。好きだからこそ解体新書したくなるの、パヨクだもん(しかも私アタマは完全に理系だから、できれば分子か何かのレベルまで完全分解して表にして眺めたいくらい)。これは日本社会の「サベツを前提とした安定感」を上手く描写した作品であり、その意味ではディストピア映画ですらあると私は確信しました。

ここでブルゾンちえみさんに登場だよ!

じゃあ、質問です。日本的なサベツ感覚とは、何ですか?(例の音楽♪)皮膚感覚。Dirty work。

「生理的に無理」という言葉を私たちはよく使い、よく耳にします。でもその「感覚」の根源を突き詰めよと言われると、もう「キレイ・汚い」に対する壮絶な分断欲求としか言いようがありません。これは抜きがたい。その抜きがたい欲求は当然現実の社会の中に反映されます。

身体的清潔のことで言えば、私の親世代の話を聴くと、日常の中にものすごい「不潔」が漂っていたことが明らかです。でも潜在的に私たちはそれが嫌だったんだね。

私の子供時代、ベルリンの壁崩壊してその向こうから日本にティラミス来た、何これうめえ、みたいな時代を経て(あたしの経験した1989年)、90年代のウォシュレットで勢いづいた日本は、クラブで踊ることを禁止しようとしたり、同人誌ですら性表現を自粛させたり、遂に、二丁目の街頭ポスターの漫画の男におばはんパンツ穿かせるところまで来てしまいました。

「美しく献身的な妻」、要は女子力の権化女性(広末涼子がどハマり。演技してるように見えないのは演技が上手くないからじゃないの)が、夫の仕事が死体を扱う仕事であると知った瞬間「けがらわしい!触らないで!」と喚く(あたしゃここで何か降りてきたのを感じた)。でねー、ここの広末さんがねえ怒っている最中ですら鼻声薄笑いなのよ~これはもう「女子力クリスタルパワー!メイクアップ!」で変身してケガレた敵をラブ・ラブリーさせて人間に戻す女性戦士だよ~今思ったけどセーラームーンって完全に「巫女による悪霊祓い」だね。

しかも、涼子さんは「汚らわしい」とか言ったくせして実はお腹にやや子がいて、それをダシに夫に転職迫るという脅迫行為に出ます。徹底してる!

そしてサベツパート2は、友人が「お前、悪い噂が出ているぞ」と言って彼を避けること。でもやっぱ男は軟弱だからサベツの表現もやり口も一人じゃ弱いしつまんねえ(だから徒党組んだり暴力に出たりするんだろう)。

本作が秀逸なのは、そうやって「主人公の前に現れた困難」、潔癖症として表現されるサベツが「サベツ解消の物語」として昇華されていない点なのです。

主人公はどうした?「仕事にまい進した結果たまたま真剣さが周囲に伝わった」のよね? これこそ、日本においてサベツを払しょくするたった一つの確実な道だっていう表現なのよ。実際、彼は色々な人の目を開かせるのだけど、それってあくまで「頑張っている人が好き」「ここまで仕事してくれてありがとう」っていう情緒的な揺れの結果に過ぎないのです。それでいて人を巻き込んで納得させてしまうんだから、政治的には勝利ですよ。心の方は映画は全く描きません。それがオトコノコ的な無頓着さと自意識の欠如に見えちゃうの。

こうして考えると日本の中で「差別を受ける側が頑張らないといけない」という状況が一ミリも動かない現状は、私達が日々好んで選択している日常と不可分なのではないかしら。

ダメ押しだけど、本作で唯一救われないまま生きてくしかない人物は誰? 余貴美子さんの役。本作が非常に美しい一方でディストピア的ですらあると思う理由はそこです。

 

執筆者・竹美

ほぼカムアウト状態の会社員。九州のパヨクな家庭に育ち、パヨク思想に染まっていることに無自覚なまま二十歳を迎え、周囲の同級生が順当に就職活動を開始した頃、全然やる気になれず焦って大学院へ逃亡。それが、「企業=金儲け=巨悪」だと信仰していたためだと自覚したのはその10年後。「思想転向」のリハビリ過程で、「真っ先に悪を告発する紅衛兵」の素養を小学生位のときに発揮して同級生にウザがられていた記憶もフラッシュバック。

このコーナーでは、映画を通じて「私やあなたというパヨク」の滑稽で哀しく、正しくて誤っている物語を発見していきたい。