伏見方丈記 其の十 

多様性の覚悟

春になってアデイは盛り上がっている。 

4月からのづんたくん投入」の刺激で若いお客さんが増えたこともあるし、開店して4年がたち客層が厚みを増しているのかもしれない。全体として共有し合うところを保持しつつ、各曜日が独自性を持って間口を広げているので、風通しも良い。

まあ、ゴールデンウィーク辺りは一年でいちばん集客のよろしい時季なので、瞬間風速の好調かもしれないが(汗)、大盛り上がりの「うさぎバー」も月1くらいで定期営業することなりそうだし、水曜に手伝ってもらっているあっきー兄貴も、正式に曜日担当になるやもしれず……新緑の樹木のごとくアデイも枝葉を伸ばしている印象だ。オーナーとしては「ありがたい」の一言。←でも、online の宣伝効果は未だ感じられない!

ところで、店内が埋まっているから万事それでよし、というわけではないのがこの商売の奥深いところ。立ち飲みが出るほどの賑わいでも、それが若い世代ばかりだと、おばさんとしては少々物足りない。目の保養にはなるんだけど、出汁の入っていない味噌汁を飲んでいるような味わいなのだ。反対に、年配者ばかりでもどこかワクワク感がないし(失礼)、あるいは、ゲイだけだとエロ度は高くなっても知的好奇心が満たされず、女性客一色の店内も「うちって観光バーってわけでもないんだけどなー」と不満が残る……。

結局、わがままなのかもしれないが、しかし、たまに絶妙としか言いようがない客層の時があって、そういう夜はえも言われぬ充実感を味わうことができる。先週の土曜も激混みの上、LGBTほかのばらつき、老若男女の配合、一人一人の個性の集合が、まるでオーケストラのハーモニーようで、実に、ママ冥利に尽きた。多様性の快楽だ。

けれど、そんな感動的な営業の後でも、最近の伏見は消耗が激しく、数日間、伏せってしまう。アデイ開業以来、体にいいことを何もしていないせいで、体力の衰えが著しく、血糖値や血圧も思わしくない。また加齢により精神的にもすっかり弱くなって“心の肝硬変”が進行中。こういうバーをやっていると、多様性の持つ潜在力を確信するが、“異文化間コミュニケーション”を可能にするためにはらうエネルギーは膨大で、明け方には自分を使い果たしたように息切れがしている。

これ、ある意味、水商売の才能がないということでもあって、きっと、ふつうはお客さんの言葉を聞き流したり、多少の軋轢はお酒で飲み込んでしまうのかもしれないが、伏見は下戸で、性格がパラノイヤかつ神経質ゆえ、一つ一つが心に引っかかって、考え込んでしまう。そしてカウンターのなかにいる時には、このお客さんとこのお客さんは政治的な信条が違いすぎるから時事ネタを進めるとヤバい! …とか、リブっぽい話題はご年配のゲイを不安にさせるから避けよう…とか、この人は攻撃的すぎるから若い人たちとは離しておかないといけない…とか一晩中、右往左往することになる。

けれど、そのうち、気遣いが自分の容量を超えてしまい、ドカーン!とサードインパクトを引き起こす。言い換えると、怒る! ←こうき副店長、大喜び! 配慮していたにもかかわらず、最後は自分でちゃぶ台をひっくり返してしまうのだから、まったくもって始末に負えないというか、いちばんはた迷惑なのはオマエだって感じだけど(反省)。

たまにお客さんから「アデイはいろんな人たちが集まるから面白い」とお褒めの言葉をいただくのだが、多少なりともそういうことがあるとしたら、それは伏見の支配的なキャラとか、これまでの店の積み重ねによって曲がりなりにもコミュニケーションの下地が作られているからだろう。一方で、異なる背景や価値観を持った人たちが場を共有することの難しさは日々痛感している。だから、「いろんな人たちが集まる」ことのコンフリクトをどう乗り越えていくのかが、この店のテーマだとも言える。

急に話しは大きくなるが、ヨーロッパなどでの移民問題を見ていると、これは大変だろうなあ…と胸がざわつく。もちろん理念で移民受け入れを語ることは簡単だが、実際にバックグランドの異なる人たちが共生していくことの困難さは、想像に難くない。日本みたいな同質性の強い社会の、こんな気心の知れたバーでさえ、他人同士が上手く関係していくことはそう容易でないのだ。酒が入って親しくなった気になっても、たいてい本当の距離は縮まっていない。親しくなったり理解し合うには、やはり時間と努力が必要なのだ。

つまり、多様性を実現するには、エネルギーを相当に投入しないとならないし、そのための覚悟が必要だということ! 多様性を喧伝する人たちにかぎって、自分の認めない相手は拒絶しがちだったりする。けれど、そもそも価値観や立ち位置が異なる相手を認めるのは、痛かったり納得できないことばかりだ。多様性を実現するという意味は、それをある程度受け入れることだと肝に命じたほうがいい。そうでなければ、社会どころか、バー一軒だって成り立たないからね!

それには異なる世界像への理解や、人間的な懐の深さが重要になってくる。

そこで思い出すのが、アデイのなかでも老け専の面々。中年以下の老け専のゲイには、ふつうのアクティヴィストにはない人間的な奥行きがあるような気がする(伏見統計および参与観察による)。というのは、旧態然たるおじさん世代に性愛的な愛情を抱いてしまう彼らは、今の時代を生きる自分自身と、年配者の価値観との間に深い溝、齟齬を抱えざるを得ない。そこのところを調停しながら、矛盾を抱えながら、それでも関わっていこうとすることで、「寛容」という力を身につけていくのではないか、と勝手に想像している(笑)。

異文化を受け入れざるを得ない、多様性を生きざるを得ないこれからの世界で、そうした寛容さはとても大事だ。しかしそれは自然のままでは育まれない。フーコーの「性の歴史」の副題に「快楽の活用」とあるが、老け専にかぎらず、性愛の経験は多かれ少なかれそのためのエチュードとなるのかもしれない。

伏見憲明

撮影:中野泰輔