二丁目寺の坊主日記 19

「分かるような分からない話」

アデイの月曜担当、本多清寛です。写真はタイの法事です。

最近、久しぶりに “法事の勉強” をしました。何を言っているのか分からないと思いますが、しばらくお付き合い下されば幸いです。

お坊さんには法事を教える専門学校がありません。学校で教えてくれるのは、基本的に「仏の教え」部分です。しかも、仏教学と言われる学問は、西洋哲学や神学と呼ばれるキリスト教研究を土台にした宗教の研究手法が使われているので、実際の現場と切り離されたことが教えられたりします(例えば「お釈迦様は葬儀を否定した」など)。

すると、 “仏教の勉強”  を好む人は葬儀や供養などをする現場を否定的に捉え、現場を好む人は学問としての仏教を否定的に捉えるようになります。僕のような若手世代だと、実際の法事に役に立つことを優先すべきなのか、法事の本質を学ぶことを優先すべきなのか、どちらかで迷う人が多かったりします。大概、自分の置かれた立場によってどちらかを選びます。法事の多いお寺に居れば前者の立場、そうでなければ後者です。

僕は後者でした。本質さえ理解できていれば、法事の形式がどうであれ問題ないと思っておりました。それに、お釈迦様が生まれた2500年前のインドに、現在やっているような儀式の形があるとは思えないので、今やっている法事の形式は変わってもいいんだと考えていたのでした。

けれど、僕が仏教を学んで分かったのは「分からない」ことです。世界には分かることと分からないことがあるのではなく、たまたま分かったと自分が感じた事柄と、自分が分からないと感じている事柄があるだけで、本質的には全て「分からない」ことしかないという事実でした。ですから、本質さえ理解できればそれでいいなんていう甘ったれた僕は、打ちのめされました。

なんか、禅問答みたいですね。蛇足で言葉を加えますと、「私」が見ている世界と他の「私」が見ている世界は同じだけど違うもので、見る「私」が70億人いれば70億通りの地球の見方があるということです。けれど、地球は一つ。一つのはずなのに、どうして70億通りになってしまうのかが問題です。

でも、それってしょうがないじゃんというのが、仏教の立場だと思っています。地球は一つなのに、どうして違う見方をするんだ!と憤ってもいいけれど、それをやると辛くない?だって、みんな縁が違うんだからと諭すのがお釈迦様です。けれども、いつか巡り巡ってその縁をもらうかもしれません。だからこそ、巡ってきた縁に全力で取り組めというのが仏教でした。

そこで、分からないことを分かるための一つの方法として、法事があります。冒頭の ”法事の勉強” とは、法事マニュアルを暗記するということです。何の為にマニュアルを作りましたというような説明はありません。事細かに決まったマニュアルをひたすら暗記し、暗記したマニュアルをひたすら実践します。毎回同じことを繰り返すのが法事です。けれど、繰り返しを繰り返していると、実は同じことをやっていなかったことに気が付き始めます。毎年の花見が毎年違うのと同じです。

この気付きは人それぞれです。言葉に出来るときもあれば出来ないときもあります。気付いたことを大切にするのは当然ですが、気付けなかったことに気が付くと、違った世界が見えるようになるらしいです。僕はまだ分からないんですが・・・。

本日の日記は分かるような分からない話でした。南無三!

 

本多清寛(しょうかん)和尚。(月曜担当)

1985年生まれ。熊本出身。お寺に生まれお寺に育つ。22歳の時、福井県の永平寺という山奥の修行寺で3年過ごす。修行仲間には相当な迷惑をかけ続けて山を下りる。その後、曹洞宗の研究センターにて仏教を学ぶ。同性婚の問題から、仏教と「性」について気になり、セクシュアリティについて勉強し始めた。生活に役立つ仏さまを模索している。趣味は「こんな時、お釈迦様ならなんて言う?」という大喜利。

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