南定四郎という巨人(ロングインタビュー)

日本の性的少数者の歴史にとって忘れてはならない名前がある。それは南定四郎(御年86歳)。

昨今、世間ではLGBT研修なるものが大流行りであるが、この御仁の名前や実績を知らないで演壇に立っている講師がいるとしたら、その人はむしろ研修を受けるべきである。それくらい南氏の仕事は大きな影響を後続世代に与えた。なぜなら、現在行われている性的少数者のパレードも、映画祭も、HIVの啓発活動も、ゲイのカルチャー誌も…この人が私財を投じて始めたものなのだから。

このロングインタビューでは、1931年(昭和六年)生まれの彼が、どうしてそのようなアクティヴィズムを日本社会において実現しえたのかを、そのライフヒストリーをたどることで明らかにしていければ、と思う。彼の人生は日本の男性同性愛者の歴史にそのまま重なる。そしてその眼差しは、LGBTの未来をも方向づけているだろう。続く者たちは、彼の活動の成功や限界のなかから新しい可能性を取り出し、肯定的にも、批判的にも、この巨人を越えていかなければならない。

(インタビュアー・伏見憲明)

Part 1 「よそ者の街に生まれた記憶」

●  南樺太、大泊の商店の次男として生まれる

伏見:南さんは昭和6年、1931年の12月23日生まれ(御年86歳)。翌年に満州の建国や5・15事件があった。きな臭い時代に向かうさなかに誕生された。

南:そうです。だから僕は誕生日は満州事変の年だと記憶しているんですよ。

伏見:生まれたのはどちらですか?

南:樺太です。

伏見:ご両親のルーツを教えてください。

南:父方の祖父が小樽から樺太に渡ったんですね。私の祖母は子供を置き去りにして男と出奔して、残された祖父は子供たちを連れて樺太へ。父親は長男で、姉と弟と妹が二人いて、5人兄弟なんです。それをみんな連れて行ったんですよ。

伏見:もっとさかのぼって聞くと、おじいさんが小樽ってことは、もともと本州から開拓で行かれたってことですよね?

南:そうです。恐らく祖父は青森県から渡ったんだと思います。

伏見:それにしてもおじいさんの妻、南さんの祖母は情熱的ですよね。そんなに子供がいたのに男と駆け落ちって。南さんがパートナーを見つけるまで淫乱生活をしていたのは、おばあさんの遺伝子に遡る?

南:そうなの、そうなの(笑い)。

それで祖父たちは樺太へ渡ると大泊という町にまず着くわけです。長女は日本人と結婚してね、敷香っていう国境の町——南樺太の一番北なんですけど、そこに旦那さんが仕事で行くので一緒について行って、長男から以下は大泊に滞在することになった。祖父は商売の才があって、雨戸一枚を用意して、その上に本を並べて、街頭販売を始めたんです。古本だとかそういう本だと思いますけどね。それで残りの家族を何年間か養い、段々資金を貯め、家を立て商店を経営することになった。その間に、次男は写真屋を始めて独立して、あとは女ですから、それぞれが結婚して所帯を持ったんです。

伏見:で、長男の、南さんのお父さんは何をしていたのですか?

南:祖父の後を継いで、商店を経営した。

伏見:商店っていうのは、もう古本だけじゃなくて?

南:そうそう。これがその時の間取りですけども、店舗がありましてね。掛け軸を売ったり、書籍の販売したり。文房具や額縁も置いてました。その頃はもう新刊本も売っていて、講談社から送って来る雑誌も置いてました。月刊雑誌、子供の童話集、子鹿のバンビだとかああいうもの。それからハックルベリーフィンの物語なんかもあったと記憶してますね。

伏見:南さんがすごく本好きだっていうのは、そういう生い立ちに関係するんですか?

南:そうそう、店番させられるから童話は全部読みましたね。

伏見:生まれたときは、もうお父さんは後を継いでいたんですか?

南:継いでました。祖父はもう死んでいました。

伏見:お母様はどういう方?

南:父と母がどうして結婚したかっていうとね、大泊には出稼ぎの人たちがいっぱい来たわけ。当時は鰊漁ってのが盛んだったんですね。鰊御殿なんてのがあったくらいですから。樺太では鰊は獲れないんですけど、鰊を積んでくるわけです。

伏見:小樽から?

南:小樽からね。漁港に連絡船や大きな貨物船が停泊する。ポンポン蒸気みたいなやつが鰊を満載でくるわけ。それから荷上げをして、樺太全島に列車で送るために、箱詰めしたりなんだり、っていう労働があるわけね。そういう労働に従事するために出稼ぎに多くの人が来ていたわけです。うちの母親は本州の秋田県南秋田郡で生まれて、そこは出稼ぎ村で、ほとんどの人が樺太の大泊を中心にした、近辺の沿岸の海岸へ働きに出た。

伏見:お母様のご実家って。

南:海の海岸べりの300軒あるだけの部落で、すぐに山が迫ってきているわけですから、そこでは畑を作ることは困難。だから、漁をするしかないんだけど、魚が捕れる季節は限られていたんですね。昔は恐らく北海道に出稼ぎに行ったんでしょうけど、ポーツマス講和条約でロシアから樺太が割譲されて、北海道よりも樺太の方が金儲けになるっていうので、みんなそっちに行くようになった。

伏見:南さんのお父さんは明治30年代生まれで、お母様も…

南:父の10歳か15歳くらい下かな。うんと離れてました。母親は出稼ぎで大泊に来て、そういう人たちは本を買いに来るわけ。本といっても、新しい本は買わない、古雑誌を買う。それで、何人かで連れ立って買いにうちの店に来るわけですけど、その中で一番元気が良かったんですよね。父親が私に言ったことで覚えているエピソードがあります。うちの商店では石鹸、歯磨きなんかが売っていて、花王石鹸が箱に梱包されて送られてくるわけね。そうすると、その箱が物入れに重宝するらしく、みんなが欲しがるんですよ。邪魔だから、棚の上に置いてあると、「あの箱ください、あの箱ください」ってお客さんが言ってくるんですけど、私の母はその声が一番元気が良かった。そこに父は目をつけた。そしたら、おじいさんがいち早く息子の気持ちを察して、母に話をつけて、結婚に持ち込んだ、ってことらしい。

伏見:なるほどね。じゃあ、お母様は積極的な性格だったんですね。お父様はどんな方だったんですか?

南:父親はものすごく気の弱い人でした。片方の目に障害があってね。

伏見:それで、妻は元気な方がバランスがいいみたいなことだった?

南:そうそうそう。だから、祖父は、気の弱い父をこの女性なら助けてくれるんじゃないかと、結婚させたんですね。案の定そうなりましたけど。

伏見:お母様の方は貧しい部落で育って樺太に来ているわけだから、商店の女将さんの座っていうのは、ある意味、階層が上昇するってことですよね。

南:そうです、勿論。

伏見:じゃあ、お母さんも、その縁談はウェルカムだった?

南:それは大喜びです。母親の兄妹中では一番の出世頭だったので。

伏見:ご両親が結婚されたのは、大正の末くらいになるのかな。南さんはご兄弟は?

南:私の上に昭和元年生まれの兄がいます。私が昭和6年だから6つ違いですね。

伏見:次男さんだったんですか?

南:そうです、次男です。下もいます。4つ、4つ違いの弟が二人。その下に妹(長女)がいるんです。

伏見:昔はやっぱり兄弟が多いですよね。子作り以外に楽しみもなかったんだろうけど。

南:そうそうそう。(笑い)

伏見:南さんは昭和6年に次男として生まれて、その時にはもう商店は賑わい、地元では豊かな方だったんですか?

南:そうですね。商店街っていったって、そんなに商店があるわけじゃないしね。

伏見:うちの父も南さんと同じ世代なんですけど、東京の貧しい家庭で育った父からは「子供の頃は、お腹が減っていた記憶しかない」と聞いていたんですが、南さんの場合は、そんなに食料事情は悪くなく?

南:悪くないですね。樺太も戦争中は配給制度ですけど、3食ちゃんと食べれたんですよ。

伏見:幼い頃の南さんは何を食べていたんですか?

南:3食米です。

伏見:それは白いご飯?

南:白いご飯。混ぜものが入ったのは戦争が始まって2年くらいしてからですかね。「麦が入るから嫌だね」って文句をいったのは4年くらいですね。

伏見:全然貧しさとは関係なく、商家の子供として不自由なく育った。じゃあ、樺太っていうのは良い思い出の場所なんですか?

南:そうです。

伏見:小さい頃の南さんは、どういう感じの少年だったんですか?

南:私は動作が鈍かったらしいんですよ。子供たちはみんな動作が機敏なわけですけど、私は一拍遅れるみたいなんですよ。

伏見:ほぉ。

南:それで、あだ名はノンチョって呼ばれてたんです。ノンビリだからそういうことなんですね(笑い)。

伏見:それは、運動神経が悪いってことですか?

南:だから、もともと体操とか跳び箱なんかが大嫌いなんですよ。走るのも遅いし。