『中村うさぎの聖書物語 』3

「カインとアベル」

 

「あの方」のことは、父から何度も聞かされた。

この世界を作った全知全能の創造主で、父も母もあの方に作られたのだそうだ。

だが、父と母はあの方の命令に背き、あの方の楽園から追放されたという。

「それというのも、あの女のせいだ」

この話をする時、父はいつも吐き捨てるようにこう言う。

「おまえの母親だった、あの女だ。あいつが俺をそそのかして、禁じられた木の実を食べさせたんだ。俺は当時、あの女に夢中だったから、あれがどんなに邪悪な女か気づかなかった。あいつは悪魔だ、カイン。血も涙もなく冷酷で、自分のことしか考えない。何しろ夫も子どもも捨てて出て行くような女だからな」

「母さんは何故、出て行ったの?」

「さぁな。あいつの言う『自由』とやらが欲しかったのか、それとも例の蛇にまたそそのかされたのか」

「蛇? それは何者なの?」

「俺に言わせりゃ、悪魔の化身だ。そもそも、そいつがあの女をそそのかして、あの果実を食べさせたんだ。俺が思うに、あの女は以前から蛇と深い関係にあったに違いない。淫乱な女だからな。で、そいつと共謀して俺にも罪を犯させ、挙句の果てにはそいつと一緒にどこかに消えたってわけだ。俺たちをここに置き去りにしてな」

母は、僕と弟のアベルがまだ幼いうちに姿を消してしまった。彼女のことはぼんやりとしか覚えていない。僕たちを連れて歌いながら砂漠を歩いていた、あの細い声。頭を撫でる、柔らかい手の感触。僕にとっては優しくて甘い思い出だが、そんなことを父には言えない。母を憎んでいる父は、きっと激昂して僕を殴りつけるだろう。いつもそうだった。父は僕が嫌いで、何かというと罵ったり叩いたりする。弟のアベルには手を上げたこともないのに。

「おまえはあの女によく似てるよ、カイン。顔立ちも雰囲気もそっくりだ」

父は酒を飲むと、憎々しげに僕を睨んでこう言う。

「おまえは俺の血よりも、あの罪深い女の血を受け継いでいる。おまえを見るたびに、俺はいつも不安になる。おまえがいつか恐ろしい罪を犯すような気がしてな」

「僕は罪なんか犯さないよ。まじめに畑を耕して生きてる。父さん、僕を信じて」

そうだ、僕は一生懸命にまじめに生きてる。父さんに信じて欲しいから。父さんに愛して欲しいから。なのに父は、僕に母の面影を見ては僕を憎み、自分に似た弟ばかりかわいがる。僕が母親似なのは僕のせいじゃないのに。

どうやったら、僕は父に愛してもらえるんだろう。ずっと、そのことばかり考えて生きてきた。認めて欲しい、喜んで欲しい、僕を誇りに思って欲しい、と。

「ねぇ、父さん。今年はとてもいい豆が穫れたんだ。いろいろと育て方を工夫したんだよ。だから今夜はね、父さんの好きな豆のスープを……」

「ああ、そろそろアベルが帰ってくる頃だな」

僕の言葉を遮って、父が呟く。黄昏に染まり始めた丘陵を見やり、うれしそうに目を細める。もうすぐそこに、羊の群れを連れたアベルの姿が見えてくるからだ。

弟のアベルは羊飼いだ。毎日、羊たちに草を食べさせるために丘の向こうまで出かけていく。何をしているのか知らないが、朝から出かけて夕方まで帰って来ない。半日羊たちの世話に追われていると彼は言うが、本当は父の目の届かない所で適当に遊んでいるに違いないと僕は思っている。

一方、僕は家から離れたことがない。家の近くの畑で野菜や穀物を作っているからだ。畑の世話は羊の世話より大変だ。水や肥料をこまめにやらないと枯れてしまうし、少しでも目を離すと悪い病気や虫にやられることもしょっちゅうだ。僕は片時も気を抜くことなく、愛情こめて作物を育てている。

金色に波打つ小麦の穂、たわわに実った艶やかな野菜。苦労して育てた作物を見る時、僕は誇らしさで胸がいっぱいになる。父さん、見てよ。こんなに立派な野菜や穀物、他の畑で見たことある? これ、全部、僕が作ったんだよ。父さんに喜んでもらいたくて、父さんに美味しいって言って欲しくて、一生懸命に育てたんだよ。

「おお、これは美味いな!」

夕餉の食卓で父が大声を上げた時、僕は胸を躍らせて顔を上げた。僕が心を込めて作った豆のスープは、我ながら会心の出来だったから……。

「おい、アベル! この仔羊は素晴らしいな! 焼き加減も絶妙だ。うん、美味い!」

父が大喜びで頬張っているのは、アベルが焼いた仔羊の肉だった。豆のスープには手もつけてない。

「うん、父さん。僕、父さんのために、一番いい仔羊を選んだんだ。丸々と肥って、ほんとに美味そうだったからね」

「うむ、確かにこれは絶品だ!」

「ねぇ、父さん、僕の豆のスープは? ちょっと一口、飲んでみてよ」

「豆のスープにはもう飽きた。カイン、おまえは本当に、いつもいつもバカのひとつ覚えみたいに同じ物しか作らないな」

「そんなことないよ。昨日は豆じゃなくて大麦のスープだっただろ」

「大麦ねぇ。貧乏くさいスープだ。あんなもの、ちっとも腹に溜まらん。その点、肉は豪快に食えていい。男はやっぱり肉だよ」

僕はがっかりして目を伏せた。

僕の努力は、いつも報われない。何故なら、僕は母親に似ているからだ。父が心の底から憎み続けている、あの女に。彼女もまた、獣の肉よりも大地で穫れた野菜や木の実を好んだそうだ。

「とりわけ、木の実をな」

と、父親が唇を歪める。

「なにしろ罪の木の実を食べた女だからな。俺はあれ以来、木の実はいっさい口にしない。あの忌々しい事件を思い出すからだ」

「でも、肉ばかりじゃなく野菜や穀物も食べて欲しいな。せっかく僕が丹精込めて育てたんだから」

「野菜なんぞ女や子どもの食うものだ。男は肉を食って英気を養わんとな。おまえはそんなものばかり食っているから、ひょろひょろと女みたいな身体つきなんだ」

父は僕のすべてが気に入らない。顔も身体つきも性格も。アベルと僕が揉めると、悪いのはいつも僕だということになる。

一度、アベルの羊たちが畑に乱入し、僕の大事に育てた豆の苗を食べてしまったことがあった。僕は怒ってアベルに殴りかかったが、父はそんな僕を叱りつけた。

「羊が草を食うのは仕方ないだろう。おまえがちゃんと畑を監視してないからだ」

「それを言うなら、アベルが羊たちを囲いの中に閉じ込めておかなかったから……」

「アベルは羊たちを守るのが仕事、おまえは畑を守るのが仕事だ。守りきれなかったおまえに非がある」

「じゃあ、もし僕が狼を飼っていて、そいつがアベルの羊を食べたとしたら、お父さんは羊を守れなかったアベルを責めるんだね?」

「狼を飼うなんてこと自体、あり得んだろう。くだらない理屈ばかりこねまわして、おまえは本当に母親にそっくりだな!」

まただ。また「母親」の話だ。僕を叱ったりなじったりする時、父は必ず母を引き合いに出す。母を憎んでいるのはわかるけど、それを僕にぶつけるのは筋違いじゃないか。八つ当たりだとしか思えない。憎しみをぶつけるべき相手が去ってしまったから、代わりに僕を憎んでるだけだ。

だけど、そんな父親なのに、僕は彼に愛されたいと願ってしまう。憎まれたら憎み返せばすむことなのに、僕は彼を憎めない。忌々しげに去っていく父の背中を見つめながら、心の中で愛してくれと叫んでしまうんだ。

父さん、頼むから僕を愛して。僕を見て。アベルに向けるような笑顔を、僕にも向けて。

不思議だ。どうして僕は、こんな男の愛なんか求めてしまうんだろう。絶対に愛してくれない人の愛を、何故こんなに欲しがってしまうんだろう。

父に愛されない自分には、何の価値もないような気がする。どんなに見事な作物を作っても、父が褒めてくれなかったら何の意味もないような気がする。

どうすれば僕は、この苦しみから逃れられるのか。父と弟のもとを去り、どこか遠くに行けばいいのか。それとも……。

それとも、弟がいなくなったら、僕は救われるんだろうか?