「おまえたちには、これまで何度も、あの方の話をしてきたと思う」

ある晩、父が僕とアベルを見ながら、改まった口調で話し始めた。

「だが、おまえたちは二人とも、あの方にお会いしたこともなければ、お声を聞いたこともなかろう。それは何故かわかるか?」

僕たちが首を振ると、父は満足そうに頷き、

「それはまだ、おまえたちが一人前ではなかったからだ。しかし、今やおまえたちは立派に成人し、あの方にご挨拶をしてもいい年頃になった」

「ご挨拶?」

「そうだ。そこで明日、あの方におまえたちの供物を捧げる儀式をやろうと思う。その供物をあの方が受け取ってくださったら、おまえたちは一人前の大人として認められたことになる」

「供物って何を?」

「自分がその手で育てたものだ。カインは畑の作物、アベルは羊。それぞれ、もっとも出来のいいものを選んで焼き、その煙を天高く昇らせるのだ。あの方がおまえたちの供物を受け取ってくださったら、煙は空に吸い込まれ、あの方が祝福してくださるだろう」

その言葉を聞いた瞬間、僕は期待と不安で胸が潰れそうになった。

もしかすると、これはチャンスかもしれない。あの方が僕の供物を受け取って祝福してくださったら、父は僕を見直してくれるかもしれないじゃないか。

だが、もしも受け取ってくださらなかったら?

そうだ。そんなことになったら、父はここぞとばかりに僕を罵り、これまで以上に僕を疎んじることになるだろう。あの方が僕を祝福してくれなかったのは罪深い母に似ているからだと、おまえは自分の子ではなく蛇と母との間に生まれた子に違いないと、ますます確信するに決まってる。

どうしよう。もしそうなったら、僕はもうここにはいられない。父からも神からも見放され、どこにも行く場所がなく、のたれ死ぬしかないんだ。ああ、考えただけでも恐ろしくて身体が震えてくる。自分は誰にも愛されず、誰からも必要とされず、この世のすべてから見放された存在だと思い知らされるなんて!

「何を脅えているの、兄さん?」

アベルが僕の顔を覗き込み、屈託のない笑みを浮かべた。

「心配性だからなぁ、兄さんは。大丈夫だよ。僕たちが心を込めて捧げた供物を、あの方が拒絶するはずないじゃないか」

おまえは愛された経験しかないからそんなに自信満々でいられるんだ、と、僕は心の中で毒づいた。おまえは父に拒絶されたことがない。父から憎々しげに罵られたこともない。だから、自分が拒絶されるなんて思いも寄らないんだ。誰もが自分を受け容れてくれると本気で信じている。

だが、僕はそんなふうに無邪気に信じることができない。アベルとは育ち方が違うんだ。誰からも愛されなかった僕が、神から愛されるとは思えない。そう、僕はもう最初から諦めることにしよう。なまじ期待なんかしたら失望も大きいから。神はきっと僕を愛してくれないだろう。そう思っておいたほうが、いざという時に傷つかなくてすむじゃないか。

「さぁ、二人とも早く寝ろ。大事な明日に備えてな」

父が上機嫌で僕たちの肩を叩き、寝床に潜り込んだ。アベルも僕に微笑みかけ、鼻歌まじりで寝る準備を始める。

気楽な奴だ。こいつが明日、もしも神から拒絶されたら、僕はどんなにか気持ちいいだろう。弟の呆然とした顔を想像して、僕はひっそりと闇の中で笑った。

 

そして、翌日。

僕は畑に出向き、一番大きく育った作物を選んで、石の祭壇の上に並べた。黄金色に輝く麦の穂、瑞々しく実った野菜。朝日を浴びて輝くその姿は美しく、僕は誇らしい気持ちでいっぱいになった。

隣の祭壇には、アベルが殺した仔羊が横たわっている。丸々と肥った真っ白な仔羊は確かに無垢で美しかったが、その喉から溢れる血を見た時、僕は思わず目を背けた。僕の作物は血なんか流してない。刈られる時に悲鳴もあげない。僕の供物のほうが清らかだと、神が気づいてくださればいいのだが……。

父が手を挙げたのを合図に、僕たちはそれぞれの供物に火を放った。ごうごうと炎が燃え盛り、黒い煙が立ちのぼる。僕は息を殺して、その煙の先を見つめた。

どうか、僕の供物を受け取ってください。どうか、僕を一度でいいから認めてください。この供物は、僕の愛だ。今まで父に捧げ続け、拒まれ続けてきた愛を、あなたに捧げます。だから、どうか受け取って。

煙はうねりながら上昇し、雲に届こうとしたその矢先に、ふいに勢いを失ってぼやぼやと空中に溶けていった。

「え……」

僕は呆然として天を見上げたまま、阿呆のように口を開けて固まった。

どういうことだ? これはいったい、どういうことだ? 空中に吸い込まれて消えてしまった僕の供物の煙。神は受け取らなかったのか? いや、でも、そんなはずはない。僕の供物は清らかで、あんなに美しかったじゃないか。どこか悪いところがあったか? 虫に食われた痕もなく、病に罹ったこともなく、すくすくと育った自慢の作物たちだ。まさに天の恵みの象徴だよ。神は何が気に食わなかったと言うのだ? それとも、あの空中に消えた煙こそが神が受け取った証で……。

「うわあっ!」

その瞬間だ。

傍らで突然、歓声が沸き起こった。僕はそちらに目を向け、そして、信じられない光景を見た。

アベルの供物の煙が巨大な柱のように雲を貫き、雲の間から金色の光芒が幾筋も差し込んできたのだ。輝く光はアベルの頭上に降り注ぎ、彼の姿を眩しく照らす。

ハレルヤ、ハレルヤ!

どこからともなく、不思議な歌声が響いてきた。ああ、見よ! 金色の光に包まれた天使が降りてきて、アベルの頭上で羽ばたいている。天使は僕など見向きもしない。ただただアベルだけにその高貴な笑みを投げかけ、両手を広げて彼の肩を抱き寄せる。

「祝福だ!」

父が感極まった声で叫び、大地にひれ伏した。

「見よ! あの方がアベルを祝福された! アベルの供物を売れ取られたのだ!」

「神よ、感謝いたします!」

アベルがひざまずき、両手を広げて天上を見上げた。その顔は喜びに満ち、天から差し込む光を浴びて神々しいほどに輝いている。天使は舞い、歌声は流れ、父と息子は抱き合って感涙にむせんでいる。そして、もうひとりの息子は……忘れ去られた兄の方は、黒焦げになった穀類の前で顔を覆い、悔しさと絶望に打ちのめされて崩れ落ちる。

何故だ! 何故またアベルだけが選ばれた!

みぞおちを大きな拳で殴られたような衝撃。息ができないほどの痛み。僕はよろめき、歯を食いしばった。神すらも、僕を拒絶した。そうか、そういうことか。僕は生まれてこなければよかったと、父も神も言っているのか!

胸の底から、激しい怒りが込み上げてきた。

僕がいったい何をしたと言うんだ。理由もなく憎まれ嫌われ無視されて、今までどれだけ傷ついてきたことか。挙句の果てに、こんな非情な仕打ちを受ける。もはや我慢の限界だ。おまえたちが僕をそこまで拒絶するなら、僕ももうおまえたちに愛されたいなどと思わない。僕なんかいないほうがいいと言うのなら、お望みどおり、消えてやろうじゃないか。

そう、これは復讐だ。僕は自分を殺すことで、おまえたちを告発する。

握りしめた拳を震わせながら、僕は地面を見つめた。明日の朝には、この大地が僕の血に染まるだろう。父は、その時、どう思うだろうか? 僕が死んで喜ぶか? いや、そうはいくまい。僕は父を呪いながら死ぬ。その呪いを受けて、父は苦しむことになるだろう。僕を殺した罪を、一生背負って生きていけ。それが僕のおまえに対する復讐だ。

 

気がつくと、僕は儀式の場を離れ、ふらふらと砂漠を歩いていた。照りつける太陽が、じりじりと肌を焼く。このまま生きながら焼き殺されたら、どんな気持ちだろう。僕は熱い砂の上に身を横たえ、両手で頭を抱えて目を閉じた。

と、その時だ。不意に、頭上から誰かの声が聞こえてきたのだ。

「カインよ、おまえは何を怒っているのだ? 何故そんなふうに顔を伏せているのだ? 何かやましいことを考えているからではないか? 後ろめたいことがなければ、顔を上げて私を見るがいい」

あいつの声だ、と、すぐにわかった。だが、僕は顔を上げず、返事もしなかった。

「何を怒っているのか」だと? そんなこともわからないのか! 理由もなく拒絶され、不当な扱いを受けたからだ。こんな仕打ちをしておいて、「何を怒っているのか?」などと、よく訊けたものだ。僕はおまえを許さない。おまえも父も弟も、僕を打ちのめしたすべての者を許さない!

「もしおまえが正しくないことを考えているのなら」と、そいつは続けた。

「気をつけるがいい、おまえの傍に罪が忍び寄っているぞ。罪を犯すな、カイン。その誘惑に屈するな。おまえは自分のその感情を制御しなくてはならない」

じゃあ、おまえのしたことは罪ではないのか?と、僕は心の中で呟く。おまえや父がしてきたことは「正しいこと」だと言うのか? 何も悪いことをしていない僕をここまで傷つけ屈辱にまみれさせて、今さら「罪」だの「正しいこと」だの言われても何の説得力もない。

そもそも、おまえの言う「正しさ」とは何なんだ? 僕にはおまえのしたことが「正義」だとは思えない。正しいこととは何なのか、それは僕が自分で決める。おまえの「正義」なんかに僕は服従しない。

そう思った瞬間、母親の面影がちらりと視界の隅を横切った気がした。

ああ、そうか!

いきなり、僕は雷に打たれたように悟った。

そうか、これだったのか! 母が求めた自由とは、こういうことだったのか!

「善悪を知る木の実」とやらを食べて、母は神に罰せられた。その意味が、今、ようやくわかった。「善悪を知る木の実」とは、神でも親でもなく、自分自身で「善悪」を決めることだったのだ。何が正しくて何が正しくないのか、自分で判断する知恵なのだ。

「母さん……」

久々に、その名を呼んだ。

風が吹いて、僕の髪を撫でた。まるであの日の母の手のように。幼い頃に聞いた母の歌声が、耳元を通り過ぎる。風の音のように、ひゅうひゅうと細く長く尾を引いて。僕に向かって天使は歌ってくれなかったが、記憶の中の母は僕に向かって歌ってくれる。

「母さん、母さん!」

涙にくれて、叫んだ。

「母さん、会いたいよ! 助けて、助けて! 僕を助けて!」

やっぱり僕は母の子だった。あの禁断の木の実を食べた彼女の血が、僕の中に脈々と流れているのだ。それは、神を必要としない血だ。父や神にとっては、とてつもなく邪悪で罪深い反逆者の血だ。しかし、僕はこの血を絶やしてはいけない。この血を絶やすと、神はこの世界の独裁者となってしまう。それを防ぐために、蛇は母に木の実を与え、母は僕の身体に反逆者の血を受け継がせたのだ。

自分は何のために生まれてきたのか、生まれてこなかった方がよかったのかと、ずっとずっと悩んできた。でも、今こそ僕は、自分が生まれてきた意味を知った。僕は死ぬことを考えていたが、それは間違っていた。僕は生きなくてはならない。

「そうだ、僕が今することは……死ぬことじゃない」

声に出して呟くと、力強い確信が込み上げてきた。死んじゃ行けない、おまえにはやるべきことがあるだろう、と。

いつの間にか、蒼い夕闇が静かにあたりを満たしていた。起き上がると、神の気配も母の面影も消えていた。だけど、僕はひとりじゃなかった。何か黒々としたものが胸の中でとぐろを巻いている。それが何者かはわからなかったが、そのずっしりと重い存在を僕は確かに感じた。

「僕が今することは、死ぬことじゃない」

ゆっくりと歩きながら、僕は繰り返す。

「死ぬことじゃなくて……復讐だ!」

自分が死ぬことが父への復讐だと思っていたが、それは違う。父は僕が死んでも、心を痛めることすらしないだろう。バカな奴だ、と薄く笑って、翌日には忘れてしまう。あれは、そういう男だ。

別の復讐を考えよう。父がもっとも苦しむのは何か? 僕が死ぬことよりも、もっと彼を傷つけられる行為とは?

その答は、考えるまでもなくすぐに見えた。まるで僕に見つけられるのを待っていたように、するりと僕の頭に入り込んできたのだ。

「兄さん?」

背後から聞こえた声に振り返ると、薄闇の中に弟が立っていた。なんというタイミングだろう。僕もちょうどおまえのことを考えていたよ。

「兄さん、探したよ。どこに行ったのかと思った。いつの間にかいなくなっちゃったんだもの」

「アベル。迎えに来たのか。父さんは?」

「さっきまで祝杯をあげてたけど、酔っ払って寝てしまったよ」

「そうだよな。おまえにお祝いを言うのを忘れてた。おめでとう、アベル。神はおまえを祝福してくれた。良かったじゃないか。さぞ父さんも鼻が高かったろう」

「でも、兄さん……兄さんは大丈夫? 怒ってない?」

「なんで怒るんだよ。俺も鼻が高いさ」

「本当に? 僕、兄さんがてっきり……」

言い淀んで俯くアベルの肩を、僕は抱いた。

「さあ、行こう。おまえに見せたいものがあるんだ」