数時間後、僕は両手を血に染めて、荒野に佇んでいた。

足元には、アベルが横たわっている。口を大きく開き、驚いた表情を浮かべたまま、虚ろな瞳で夜空を見上げている。その眼には、もはや星の煌めきも映ってはいない。彼は冷たく硬い骸となって、大地に転がっている。

僕が、彼を殺したからだ。

アベルには何の罪もなかった。彼はただ、生まれながらに愛されただけだ。僕が生まれながらに憎まれたように。

僕たちには何の罪もなかった。すべては父と神の偏愛ゆえだ。しかし、僕は彼を殺すことで父への復讐を果たし、同時に重大な罪を背負った。それは自分でも自覚している。善悪を決めるのは僕自身だが、さすがにこれは「罪」だろう。

でも、僕は不思議と後悔はしていないのだ。アベルを不憫には思うが、彼も僕も「犠牲者」だ。父の母への憎悪と執着が、僕たちの関係をここまでこじらせた。悪いのは父だ。そして、そんな父の肩を持った神だ。僕は確かに罪を犯したが、それは必然的なものだった。僕に罪を犯させたくないのなら、神は僕の供物をも受け取るべきだったのだ。

アベルの死体を埋めた後、僕は重い足取りで歩き始めた。もうここにはいられない。留まる気も、もちろんない。だけど、僕はこれからどこに行けばいいのだろう?

父のいる天幕に戻る気もせず、あてもなく荒野をそぞろ歩いていると、ふいに何者かの気配がした。見ると、そこにあいつが立っていた。初めてあいつの姿を見たが、すぐにそれが誰だかわかった。僕たちと同じ二本の手と二本の足を持ち、夜の闇の中でも煌々と輝く光に包まれた、その姿。

神だ。こいつがこの世界の創造主、そして僕の供物と愛を踏みにじった張本人。

「カインよ」と、そいつは言った。

「おまえの弟はどこに行ったのだ?」

「知りませんね。僕は弟の番人じゃないので」

「おまえのしたことを私は知っているぞ。おまえの弟の血が、大地から私に訴えかけている。カイン、おまえは何ということをしでかしたのだ。おまえは恐ろしい罪を犯したのだぞ」

「わかっています」

「わかっていて罪を犯したのなら、なお悪い。おまえは自分の犯した罪で呪われるだろう。おまえがその手で弟の血を大地に流したから、大地はもはやおまえのために実を結ばない。おまえは畑を耕しても、何の収穫も得られなくなる。そしておまえはこの地から追放され、永遠に地上をさまよう放浪者となるのだ」

「もう僕は畑を耕せないということですね」

僕はそう言って、薄く笑った。

「それがあなたの計画ですか。僕から農耕を奪うために、あなたはわざと僕の捧げた畑の作物を受け取らなかったのですか。ずいぶん周到な苛めだな、それは」

「私がおまえの供物を受け取らなかったのは、おまえがすでに心の中で罪を犯していたからだ。おまえは弟に嫉妬し、彼を憎んでいた。その気持ちに気づいていたから、私はおまえの穢れた供物を受け取らなかった」

「あなたが受け取らなかったから、僕は弟を殺す決意をしたんだ。あなたが受け取ってくれてたら、こんなことはしなかった。これは僕だけの罪じゃない。あなたと父がそう仕向けたのだから、二人とも共犯なんですよ」

「自分の弟殺しを私のせいにする気か。どこまでも罪深いやつめ」

「だって、そうでしょう? あなたが本当に全知全能なら、僕の供物を受け取らないことで何が起きるか知っていたはずだ。知っていて、あえて受け取らなかったのなら、これもあなたの計画のうちということになる」

「私はおまえの人殺しなど計画していない。むしろ警告したはずだぞ。罪の誘惑に屈するな、と」

「そんな警告をする前に、まずは僕の気持ちを慰めて欲しかった。父に疎まれたうえに、あなたにまで拒まれた僕の、ずたずたになった心を救って欲しかった。どうしてあなたは僕を突き放したんですか? 僕が何をしたと言うんですか?」

「おまえが原罪の子だからだ」

彼は僕に指を突き付け、厳かな口調で決めつけた。

「おまえの中にあの蛇がいるのを、私はずっと気づいていた」

「蛇? それは僕の母に知恵の実を食べさせた、あの蛇ですか?」

「そうだ。いいか、カイン。おまえは何故、父親の愛にこれほどまでに執着するのか。それを考えたことがあるか?」

「親から愛されたい、認められたいと思うのは普通でしょう」

「いや、違う。父から愛されないことにそれほどまでに捉われるのは、あの知恵の実のせいなのだ。野の獣を見るがいい。親から愛されなかったからという理由で死のうとしたり、兄弟に殺意を抱いたりする生き物が他にいるか?」

「…………」

「いないだろう? ほかの生き物たちは皆、誰かから愛されたり必要とされたりすることを、おまえたちほど求めない。たとえ親がいなくても、食べる物と寝る場所さえあれば、それで満足なのだ。彼らは自分が何者かなどと考えないし、自分に生きる価値があるかなどという問題で悩まない。私は生き物を、そういうふうに作ったのだ。なのにおまえの親は、私の禁じた知恵の実を食べて、特殊な病に罹ってしまった」

「どんな病ですか?」

「あの知恵の実を食べた者は、他人を通して自分の価値を計ることを知る。それはおまえたちに自分を外側から見る能力を与えるが、同時に、自分の価値を外側に求めるようになるのだ。おまえは、その典型だ。おまえが人殺しをするほどまでに狂おしく求めた『愛』……その『愛』というもの自体が、おまえの罪の根源であり、おまえの病そのものなのだ」

「では、僕が弟を殺したのは、知恵の実のせいだと言うのですか?」

「そのとおりだ。おまえが何を感じ何を考えているのか、私はずっと見ていた。そして、おまえの抱える『愛』という病に早くから気づいていたのだ。その病こそ、おまえが原罪の子である証だった」

「さすが全知全能のお方だ」

皮肉な笑いを浮かべて、僕は肩をすくめてみせた。

「なら、僕の考えていることもわかるでしょう? あなたに追い出されるまでもなく、僕はこの地を去る気だった。ただ、あなたに呪われたおかげで、僕は今まで生業としてきた耕作すら許されなくなりました。僕はきっとのたれ死ぬでしょう。いや、その前に、弟を殺した罪を咎められて殺されてしまうのかな? いずれにせよ、僕には過酷な運命しか待ってない。そんな絶望的な人生なら、今すぐにでも死んでしまった方がマシですよ」

「いや、私はおまえを死なせない」

神は平然と、死よりも恐ろしい罰を宣告した。

「おまえは罪を背負ったまま、苦しみ続けて生きるのだ。死にたくても死なせてやるものか。そうだ、人々がおまえを殺さないよう、おまえの額に印をつけよう」

神はついと指を伸ばして、僕の額に押し当てた。瞬間、焼けつくような痛みを感じて、僕はたじろぐ。

「これは烙印だ」

「烙印?」

「そう、これはおまえの罪の証。この印を見れば、人は恐れておまえに近寄らず、危害を加えることもしないだろう。もしもおまえに危害を加えれば、私がその者に7倍の危害を与える。おまえは誰にも殺されず、自ら死ぬことも叶わず、私がいいと言うまで生きてこの地をさまようのだ」

なんという究極の嫌がらせだろう、と、僕は思った。つらくて苦しくて、誰か殺してくれと叫んでも、誰も僕に近寄らない。「死」という救済すら、僕には与えられないのだ。僕はこいつの呪いが解けるまで、おめおめと生き続けなければならない。誰にも愛されなかった傷を抱え、弟殺しの罪を背負い、それでも生きていけと言うのか。ここまで過酷な罰を与えられるほど、僕は忌まわしき存在なのか。

「さぁ、おまえの行くべき道を行くがいい」

その言葉に背中を押されて、僕は歩き始めた。行く先のあてもなかったが、僕の足は自然にある方向を目指し、そこにたどり着いた。そこはエデンの東、ノドという土地であった。

かつて僕の父と母が生まれ、罪を犯して追放された、あの「エデンの園」の東の地。そこには、あの蛇もいるのだろうか。

蛇に会ってみたい、と、僕は思った。蛇に会って、彼の考えを聞いてみたい。僕はこれからどうやって生きていけばいいのか? 僕は何故、こんな罪を背負うよう運命づけられたのか? 蛇は僕に何を期待しているのだろうか?

歩き疲れた僕は、小さな水たまりを見つけて屈みこんだ。水面に、自分の顔が映る。それを見た途端、僕はあっと小さく叫んで飛び退いた。神が僕の額に付けた印を、その時初めて見たからだ。

額には、長い身体をくねらせた蛇の姿が刻まれていた。木の枝に絡まり、こちらをじっと見ている蛇。

そうか、蛇は僕の中にいるのだった。僕自身が蛇なんだ。人間の罪の象徴、神への反逆者の証。僕の印を見た人は、恐れて近寄らなくなるだろう。僕はずっと孤独に生きていくのだろう。だが僕は、この血を絶やすわけにはいかない。蛇の血は、僕の子孫に受け継がれていく。彼らはいつか神に反旗を翻すだろう。あの木の実に授かった知恵を最大限に使って、神に対抗する勢力となるだろう。

それが、僕の復讐だ。僕を愛してくれなかった父と神に対する、最大限の意趣返しなのだ。

水たまりに映った自分の顔に、僕はこっそり微笑みかけた。この蛇が刻まれている限り、僕は神に裁かれ続けるが、同時に神を裁く存在にもなるのだ。神は僕を通して、自分のしたことの罪を知るだろう。僕の子孫を通して、自分の過ちを噛みしめる羽目になるだろう。

僕は神を告発する者、神の審判者だ。神が僕を視ているように、僕も神を視ている。神が僕を覗き込む時、僕もまた神を覗き返す。神は僕という人間の存在によって、自分もまた視られ裁かれる立場であることを知る。僕は神の鏡となる。僕の目に映った己の姿から、神は永遠に逃れられない。

そうだ。それが僕の中の「蛇」なのだ。暗闇からじっと神を見つめる目。神がもっとも恐れたのは、自分を「視る」者の存在だ。蛇が母に授けた知恵の実は、確かに僕たちに「視られる者」の苦しみを与えたが、同時に僕たちは神を「視る者」となったのだ。それが「罪」だと決めつけるのは、神の勝手な言い分だ。

神を「視る」ことは罪ではない。彼もまた、何者かに裁かれなくてはならない存在だから。額に蛇の目を持つカインの一族は、いつかこの世界のからくりを見破り、神のまやかしやトリックを告発する者となるだろう。おそらく僕の名は、人類初の「人殺し」として神話に刻まれる。だが実際には、僕は「人殺し」などではなく「神殺し」の一族なのだ。

(了)

絵・こうき