BLの欲望とは何か?

伏見:『BL進化論』拝読しましたが(伏見の書評をonline に上げています)、BLの楽しみ方は読者の数だけあるってことを前提にはしてるけど、溝口さんとしては「家父長制的な社会、女性差別的な規範や、異性愛社会的な規範から解かれるための装置として、男同士のキャラの設定が必要とされた」という観点を採用している。溝口さんの見方を共有している人はいっぱいいると思うんですけど、それ以外はどんな欲望がBL投影されているんですか? それは読者の数だけあるんだろうけど。

溝口:たぶん、一番多いのは無自覚層と言われる人たちで、「可愛いから読んでいるだけ、かっこいいから読んでいるだけ」ですね。「別に私は家父長制度によって迫害されていません」って感じの方が多いと思います。

伏見:榊原史保美っていう人の『やおい幻論』という著作を読みましたが、あの本も個性的な解釈をしていますよね。

溝口:あの方は、自分の気持ちとしては精神的なFtMで、さらに、精神的に男が好きな男であるから、それを小説で表現しているんだ、とお書きになっている。彼女が主観的にそう思うのは「そうですね」としか言いようがないけれど、理論的にはツッコミどころがありましたけど。

伏見:溝口さんの採用している家父長制批判的な文脈、フェミニズム的な定義以外でも有力なものってあるんですか?

溝口:私も言ってることですけど、エロの主体であることに対して、抵抗感があって、それを回避する回路であるとはよく言われているんです。

伏見:ところで、今でもBLのマーケットって大きくなっているんですか?

溝口:私が調べた限りでは商業BLは、90年代はすごく広がったけど、その後は……ただ電子書籍の普及で、それまでとは違う層が増えているみたいなので、電子までカウントすれば、小さくはなってないんじゃないかと思うんですけど。世間のバブルよりもBLバブルって遅くて、90年代の後半まであって、その時期にこんなに楽しいものがあるんだ、って気がついた人はすごく多かったようです。当時、作品数、作家数がそんなに多くなかったから一つ一つがすごく売れたけれど、90年代の末くらいにはそのバブルも終わって、その後は多品目少部数になり、読んでいる人の年齢層も上がっていった。だけど、これは紙の商業BL出版だけの話で、ここ数年、電子書籍で買う若い読者が増えた、という認識です。とはいえ、電子での売れ方はまた紙と違うので、把握がむつかしいのですが……。

伏見:計量するのは難しいと思うけど、論理的に考えて「家父長制的な規範から解かれたい」っていう欲望がモチベーションになっているとしたら、今やどんどん性的に自由になって、女の人でもがんがんセックスする時代になった。以前に比べたら、相対的には女性も解放されたわけじゃないですか。とすると、マーケットが萎んでいくっていう相関関係が出て来てもおかしくないじゃない?

溝口:うーん……

伏見:市場が広がっているとした、その定義自体に間違いがあるってっことにはなりませんか?

溝口:ならないと思います。

伏見:あ、ならない(笑い)。その心を教えてください。

溝口:そこには2つあって、例えば、20年前とかに比べると女性の処女性を重視する傾向は弱まっていると思うんですけど、じゃあ異性愛女性たちが自由かっていうとそんなことはない。よしながふみさんが三浦しをんさんとの対談で言われていたことなんですけど、「最近の女性は大変だ」と。なぜなら大昔は結婚するまで処女でいればそれで良くて、ある意味簡単だった。今は若いうちから複数の人とエッチしまくったりしていると、「ちょっとお前、それはいくらなんでもふしだらだ、落ち着け」って言われ、じゃあ何もしないで、ハタチをすぎても、あるいはさらに30歳をすぎても誰とも付き合わずに処女でいると、「少しは男性に好かれるようにオシャレをしたらいいんじゃないか」って周りからも言われる。なんなら親からも言われる。で、適度に異性愛者として活動することが推奨されているんだけど、その適度さっていうのが自分たちが決められるんじゃなくて、家父長が任意に決めるんです。その基準がそれぞれの家庭や環境によってくるくる変わるわけだから、30年前より今の方が大変だと思う、ってことをおっしゃっていて、それは本当にそうだと思い、本でも論じました。

伏見:今は昔よりも抑圧されているっていう時代認識は、僕には納得できないけど、日本の女の人は何年経っても何十年経っても、セックスをしてもしなくても、ずっとこじれているってことなのかしら。セックスの迂回路を必要としない社会になんでならないんだろう?

溝口:次に出す『BL進化論 対話編』のために、C.S.パキャットさんっていうメルボルン在住の作家さんとスカイプで話したんですが、彼女はM/Mっていうジャンル、英語圏のBL、オリジナルのBL小説みたいなもので初めての大ヒットを出した方なんですね。英語圏にはアン・ライスみたいな人は突然変異でいて、それ以外はスラッシュファンダムの二次創作みたいなものはあったけど、オリジナルのBL小説はなかった。パキャットさんは、日本に何年か住んでいて、日本のBL漫画や小説などを読めるくらい日本語が堪能になって、いろいろ読んだのちに、自分でもオリジナルが書きたいって思って、それで書いてみたそうです。最初は出すところがないから、ネットに無料で公開して、それを紙の自費出版でネット販売して、それがすごく売れたんです。そしたらペンギンが正式に契約して、ペンギンから出たのが2015年。それが英語圏初のBL小説みたいなので超ヒットして、現在、1つの現象みたいな感じです。で、英語圏では今まさにネット世界で“やおい論争”ナウみたいになっている。

伏見:つまり、日本の方が先進国で、欧米の女の人たちこそ、BLの快楽も知らない可哀想な人たちだったっていう(笑い)。

溝口:そうかも知れないですね。そういうファンタジーを求める女性の全人口の何パーセントに当たるのか分かんないですけど。

伏見:じゃあこれから日本以外の国でも、BL的な欲望の装置がメジャーになる可能性が……

溝口:あると思います。ただ漫画はもっと時間がかかると思いますが。なぜなら、あちらにはもともと少女漫画というジャンルがないから。少女漫画的な絵柄を若い頃から見慣れて描き慣れている人が出てくると、BL漫画的なものも出てくるかも知れないです。

伏見:じゃあやっぱり、24年組とか、森茉莉とか、偶然に出現した作家の存在が大きかったってことかな? 偶然にその欲望を発見したクリエイターが出たか、出ないかみたいな違い。

溝口:はい。それで、たとえば萩尾望都の作品で、英訳版がどれだけ出ているかと思ったら、『A-A’』とか『バルバラ異界』とかあの辺の作品をマット・ソーンさんって言うアメリカ人の方が出しているくらいで。その方は男性かと思いきや、最近ブログで「私はMtFなのでSheと呼んで下さい」と書いていて、彼女の好みからは『ポーの一族』とか、『トーマの心臓』とかが外れているようで、その辺は翻訳されてないんです。日本だと、オリジナルの、ホモエロティックな美少年同士の物語が大手を振って存在していて、『ポーの一族』が40年かぶりに再開したのを「週刊文春」が記事にするくらいですよね。それは英語圏とは全然違う。エドガーとアランみたいなレベルになると、日本では腐女子でもない人々の心の中に住んでいる。

伏見:僕の中にも住んでいる。

溝口:はい。

伏見:ま、時々自分のことをメリーべルって言ってるけどね。

溝口:じゃあ消滅しないと。

伏見:うっ。一番好きなキャラは老ハンナなんだけど(笑い)。

溝口:老ハンナ! いいですよね。

 

腐女子がセクシュアリティになった!

伏見:えっとね、また定義の問題で恐縮ですが、ジェンダー・スタディーズの文脈じゃなくて、例えば表現の中のキャラに憑依するっていう欲望の形式、自分じゃないものに憑依して、快楽なり欲望なりを満たすっていうある種のパターンが、家父長制とか女子がこじれてるとかじゃなくて、一つの欲望の装置として利用されている、って見方じゃダメ?

溝口:いや、べつにダメじゃないですけど、憑依しているっていうのは?

伏見:例えばね、ムード歌謡ってあるじゃないですか、男の歌手が女の主語で哀歌を歌うってやつ。あれって、僕の知り合いのフェミニストが「あれは、ありもしない女を男が妄想しているだけ」って言うんだけど、僕はそうじゃなくって、ああいう歌がヒットしたり、男たちがカラオケでも歌いたがるのは、そこにトランス的な欲望が入っているんじゃないか、と思っているの。自分がそういう女になることに、歌っている男がジュン…としちゃっているっていうのかな。なんか日本ってそういう文化があるんじゃないかって気がするんだよね。それも一つの男らしさからの解放とも言えないこともないが。

溝口:いや、いろんな理論のアプローチがあって良いと思います。確かに、漫画を読むっていうことと、歌うっていうことはかなり違う。歌う方が身体的な行為性だと思うんですけど、一度、歌とか芸能になった時に、性別越境にものすごく寛容だっていうのは日本社会の特徴だと思いますね。

伏見:コスプレもそうじゃないですか。BLも、肉体性は伴っていないけど、でも欲望の形式は一緒の様な気もするけど違う?

溝口:それで言わなくちゃいけないって思い出したんですど、私自身が思春期に、たとえば摩利に感情移入していた、というのは、すごく強く「こうなれればいいな」という同一化だったから、精神面だけとはいえ、憑依に近かったかもしれない。でも、近年のBLについては、読者は必ず、はキャラクターに同一化———「受け」にも「攻め」にも―—していると同時に、第三者の立場というか、物語世界を外から、「神の視点」でも見ているんですよね。さらに最近では、その視点のことを、壁の陰から見守りたいとか、キャラクターが過ごす部屋の観葉植物となって、彼らのイチャイチャなり葛藤なりをみたいっていう言い方で、表明する人が増えている気がします。商業BLの読者とかはとくに。なので、憑依とはちょっと違う。

伏見:なるほど。うちの木曜日を担当している真紀ママは重度の腐女子と呼ばれていて(笑い)図書館ができるくらい本をいっぱい買い続けているが、結局、自分のセクシュアリティは腐女子だという結論に至った。夫も子供もいるけどね。彼女も多分肉体的なことよりは観葉植物でいたい派みたい。

(真紀:覗き見ですね。)

溝口:今まさに、「腐女子はセクシュアリティ」っていう言葉が出ましたが、そこが重要なんです。結婚していようがしていまいが、自分の腐女子である部分、商業BLが好きだったり、あと二次創作も好きだったりっていう部分を一種のセクシュアリティと思っている人が多い。本当にただ、ちょっと可愛いから読んでいるだけって思っている人がそうは思ってないかもしれないけれど、もうちょっと内省的に自分を分析する人は、これも一種のセクシュアリティだと思っているので、単に無邪気な異性愛者ではなく、自分の中には規範から外れるものがあるっていう認識があるから、それこそLGBTに対して理解があったり、自分もある種の変態(クィア)だと思っている人が多い。

伏見:僕も長くセクシュアリティに関する講演とかしているわけですが、90年代の前半とかは大学とかに行っても、時代が時代だからさ、二次会とかでね、「ここにいる人でゲイの人いますか?」って投げると、暗い顔をした青年が恐る恐る手を上げて、周りの人がその勇気に拍手!(感動)みたいな感じだった。90年代も後半になると、大学とかに赴いて(当時よくメディアに出たこともあるんだけど)キャンパスを歩いていると、「姐さん!」って呼ばれて、「え、私?」っていうような空気になり(笑)、そしてビックリしたのが、0年代の半ばくらいにある大学に行った時に、学生に向かって「性的マイノリティの方がいたら、嫌じゃなかったら手を上げてください」って言ったら、手を挙げた女子がいたんですよ。それで、「差し支えなければあなたのセクシュアリティを教えて下さい」って言ったら、「腐女子です!」ってものすごく堂々と言われた。それは僕の中で大きな事件だったの。つまり腐女子っていうものが1つのセクシュアリティとして認識されていたっていう事実で、同性愛をもっと深刻な問題に思っていたから、「腐女子と一緒にされてたまるか」みたいな差別的な気持ちも相まってさ(笑い)。

溝口:確かに、「娯楽の消費者風情が」っていう気持ちはわかりますが。

伏見:でも今はみんなが自分の性、性の差異をそんな風に語れるようになったよね。ゲイもセクシュアリティの1つだし、腐女子もそうだし、他のマイノリティもそうだし、みんなが等価になってきたっていうと変だけども。

溝口:そうね。

伏見:溝口さんはそういう意味ではレズビアンなの? 腐女子なの? その辺は?

溝口:両方です。レズビアンでありヴァーチャル・レズビアンであるっていう。

伏見:どっちに優先順位があるとかはないんですか?

溝口:全然ないですね。

伏見:あ、ないんだそれは。自分を構成している1つの要素であって、割合は変わんないんだ。割合は変わるのかな?

溝口:割合も変わんないと思いますね。だって、最初の方にお話ししたように、BLの先祖である少女漫画の『摩利と新吾』鷹塔摩利に憧れてオシャレをしたいってところがルーツだと、それはもう既にBL愛好家として、つまり、ヴァーチャル・レズビアンとして思ったことを、長じるにつれて実際の人生で実現していった、ということなので。漫画表象から受けた影響を、多分に妄想も含めて楽しんだ上で、現実化もしようと行動したという……。もちろんリアルな社会の中で、肉体を持って暮らす自分がどういう人と暮らしたいかというと、私の場合、かなり純度が高い、多分98%か99%くらいレズビアンだと思うんですよね。ほら、他にも色々な軸があるよって話があるじゃないですか。「性別だけじゃなくて、年齢だったりとか、ルックスだったりとか、色々な状況だったりとかで変わります」って。厳密にはさまざまな軸がグラデーションになっている、いわば球体のどこかにひとりひとりが位置するわけで、「年上の男よりは女のほうがいい」っていう男性の友達がいたりしますが、私はそれはなくて。

 

欲望の変化を捉える

伏見:溝口さんの今回の本が大変素晴らしいと思ったのは、変化というものを捉えようとしているところなんですよね。ある構造を記述するのは簡単っていうか、出来合いの理論を援用すれば容易なんだけど、何かが変化していくのを捉えるのは、どうにも難しい。そしてそれこそが重要。「クィアジャパン」に掲載された論文から20年くらい経ったわけですが、その間の変化を分析して、欲望とか社会ってものがどう変化するのかっていうことをちゃんと記述したという点が、めちゃくちゃ素晴らしい業績。友達だから言うわけじゃないけど、ジェンダー・スタディーズとかクィア理論とかでそういう仕事をする人って少ないからね。本当に尊敬しています。

ところで、溝口さんは今回の本の中で、表象にも現実に対する責任があるって書いているじゃないですか。意地悪な質問ばっかりで申し訳ないけど、やっぱり表象には責任があるんですか?

溝口:個人的なファンタジーはなんだっていいんです。自分のお部屋の中で何をしていてももちろんいい、誰かをぶっ殺すファンタジーでも全然構わないけれど、それが表現物になって、公的なマーケットで流通するものになっているのに、でも「これは本当に個人のファンタジーなので社会とは関係ないですよ」って言っても成立しないですよね。そう言う意味での責任。

伏見:ここが非常に難しいところですよね。差別的な表現、差別構造に乗った物語はいけないとなったら、表現が成り立たなくなることもある。例えば、70年代のウーマンリブみたいに、男女関係、男と女の性愛関係自体が差別なのだから、その土俵に上がった途端に差別の構造を再生産することになる。したがってそこから降りなければいけない。だから髪の毛は短くしなきゃいけないし、化粧はいけない、スカートもいけない……ってなっていったのと同じ論理的帰結になる。

溝口:えっとね、切り分けられないけども、実際にどうなっているかと言ったら、BLももちろん玉石混交でいろんな作品があって、商業的に流通しているものでありながら、ホモフォビア丸出しだったりとか……

伏見:90年代のBLの決め言葉が、なんだっけ?

溝口:「俺はホモなんかじゃない、お前がお前だから好きなんだ。」

客席:(笑い)

溝口:そういうセリフはさすがに減っているけど、そのような価値観がかいま見える作品は今でもあって、これで稼いで生活しているのに、プロとしてやっているのにそれかよ、って思ったりすることもあります。一方で、創作をするにあたって、自分も普通に人間であり、社会人でありっていうことで、その人なりに責任を持ちたいと考える作家も最近は出てきているわけですよ。それが、とてもありがたい。「BL進化論」の中で「進化系」の作品の最前線として取り上げている中村明日美子さんの「同級生」シリーズは、私がPhDをとった2008年にスタートしたんです。中村明日美子さんは、誰に言われたからというのでもなく、彼女自身のナチュラルな動機で、他者に責任を持とうとする表現をしていた。それと同時に、読者さんたちを楽しませて、キュンキュンさせて、萌えさせることももちろんやって、一巻ではキュンキュンの方を主軸にしていて、だんだん親との関係が出てきたり、同級生との関係だったり、社会との関わりだったり……読者が付いて行きやすいように物語を育て、「リアルホモなんか」って思っていた読者たちの意識を変えるような作品を描いて行った。差別的な作品は全部ダメとか、「俺はホモなんかじゃない」とか「出会い頭のレイプ」は規制すべきだとか、そう単純な問題ではありません。

伏見:ごめんなさい、「出会い頭のレイプ」って何? すごいね、そのコンセプト(笑い)。

溝口:遠くから見ていただけなのに、拉致監禁レイプして、それがただの犯罪にならずに、「受け」がこれが純粋な愛の末路だったんだって気がついて、レイプした人のことを好きになるっていうのが、1つの定番だったんですよね。それも減ってきましたけど。

伏見:それも、禁止はしないわけ?

溝口:うん、だって禁止は誰にもできない。そういう表現をしている人って、多分、考えてないだけなんですよ。悪気でやってるわけじゃなくて無意識。だから、私の『クィア・ジャパン』の論文を読んだことによって、「初めて気がついた」ってケースもあった。「こんなに問題含みな表現であることに初めて気がついた」って、三浦しをんさんなんかも言ってくださいました。それこそ批評が、現在進行形の商業BLジャンルと実際に切り結ぶことができたのではないか、と。限定的な形ではあっても。そして、そんな紋切り型の告白じゃなくても、出会い頭のレイプじゃなくても、好きなんだって表現できることがわかったと言ってくれた作家さんもいました。そして、繰り返すんですが、先ほど例に出した中村明日美子さんのように、私の論文を読んだわけでもなくてもご自身で、世間一般のホモフォビアを乗り越えるヒントを示す作品の創作に行き着いた方もいた。

伏見:ファンタジーと現実の(溝口さん的な言葉で言うところの)交渉って、大事ですよね。互いに交渉することによって、変化する欲望もある。社会も人間も成長する。

溝口:そうですよね。私が『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』で言いたかったことは、BLにおけるホモフォビア的な表現や、今日はお話できなかったのですが、ミソジニー的な表現も変わってきているということです。それと、提供する漫画家や小説家も、読者も、大多数の人たちは、理論化や言語化をした上でやっているわけではなくて、「読者を楽しませる作品にしよう」「面白い、可愛い、カッコいい、萌えるから読む」という、快楽を追求しているなかで、アクティヴィスト的な可能性をもった表現物が生まれているBLというジャンルの稀有な意義。それを、掬って、論じたかったのです。

伏見:表現と社会が良い関係を築くことができる、良い例ですね。批評の重要性を痛感するお話しを聴くことができました。ありがとうございます。(了)

 

溝口彰子

大学卒業後、ファッション、アート関係の職につき、同時期にレズビアンとしてのコミュニティ活動も展開。その後、アメリカNY州ロチェスター大学大学院に留学。ビジュアル&カルチュラル・スタディーズPhD。単著『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』(2015、太田出版)は中国語、韓国語にも翻訳された。2冊目となる『BL進化論 対話編(仮題)』は、よしながふみ、中村明日美子、ヨネダコウなどのBL作家や千葉雅也(哲学者)ら13人との対談と、「BL映画論 序論」「BLとゲイの関係」など書き下ろしを含めた内容で、2017年夏〜秋に刊行予定。2017年10月から欧州巡回の「マンガジア」展(バービカン・センター企画)の公式アドバイザーもつとめている。

写真(溝口さんの近影)・市川勝弘