大塚ひかりの「変態の日本史」6 

女装して敵の尻を刺すヤマトタケルノ命 『古事記』

 悲劇の英雄ヤマトタケルノ命。

 父天皇(天皇の権威と名が確立していなかった当時は大王と呼ばれた)に命じられ、西に東に奔走し、故郷に辿り着けぬまま客死した彼は、天皇の権力地図を広げた古代最大の功労者ですが、「クィアな性の世界の王」でもあります。

 景行天皇の皇子である彼はもとはヲウスと呼ばれ、『古事記』によれば、父の女を横取りした兄を厠で待ち伏せし、手足をもぎ取って捨てるという残虐な殺し方をする。恐れをなした父天皇は体よく彼を追い払うため、西方のクマソタケル兄弟を討伐するよう命じます。

 この時、ヲウスは、叔母の服を賜り童女をとめの姿となって、クマソタケル兄弟の祝いの宴席に潜り込む。『日本書紀』によればヲウスは当時十六歳。女装した彼は女たちの中でも一際美しかったのでしょう。すっかり気に入った兄弟は、自分たちのあいだにヲウスを座らせて、盛んに杯を重ねます。

 そして宴たけなわの時、ヲウスは、クマソタケルの兄のえり首を取ると、ふところに隠していた剣を胸に刺し貫き、逃げ出す弟をも追いつめて、

つるぎを尻より刺し通しき

 剣で尻を刺し貫いたのです。女装したヲウスの剣に尻を貫かれた弟タケルは、この時、思いがけぬ言動に出ます。

「その刀を動かさないでくれ。言いたいことがある」と。

「西のほうには我ら二人をおいて、建く強い者はいない。しかし大倭国には、我ら二人にまして建き男がいらしたのだ。だから私が御名を差し上げよう。今後は倭建御子やまとたけるのみこと名乗られるがよい」

 彼がそう言い終わるや、ヲウスは熟した瓜を斬るようにクマソタケルを斬り裂いたのでした。

 西方で絶大な権力を誇っていたクマソタケルの命名で、以後、ヲウスはヤマトタケルと名乗ることになるのです。

 『愛とまぐはひの古事記』『古事記 いのちと勇気の湧く神話』にも書きましたが、ヲウスが叔母の着物を借りて少女の姿になったのは、男の身で女のパワーをも取り込むためで、女のアマテラスがスサノヲを迎え撃つために男の姿となったのと同じことでしょう。

 古代人は、女と男のパワーを併せ持つ者が「最強」と考えていました。

 女のパワーとは、クマソタケルという屈強な男をたらしこみ、非力にさせるという意味での「女の性の力」も含まれている。

 また、女の力を兼ね備えた英雄には、決まって同性愛的な香りが漂うもので、華奢で小柄な牛若こと源義経に、マッチョな弁慶がセットになっていて、両者の対決場面では、義経は女の装束を身につけていました(『義経記』)。『平家物語』で、熊谷直実が、十七歳の平敦盛を組み敷いた時、あまりの美しさにいづくに刀を立つべしともおぼえず助けようとするものの、人手にかけるよりはと泣く泣く首を斬ったのもこの類でしょう。

「こうした女性的な美少年とマッチョ男の、死と背中合わせであるがゆえにいっそう高まるエロティックなライバル関係」(『愛とまぐはひの古事記』)のルーツがヤマトタケルの物語にはあるんです。

 ヤマトタケルの残虐さは常に自分の魅力で相手をたらしこんでおいて殺すというところに表れている。

 クマソタケルに続き、イヅモタケルを殺す時も彼はイヅモタケルと友情を結び、あらかじめ用意した偽の刀を腰に差し、川で水浴びをして裸体をさらす。そして一足先に川から上がると、イヅモタケルの大刀を取って、

「刀を交換しよう」

と提案します。イヅモタケルが言われるままにヤマトタケルの用意した偽の刀を腰に差すと、

「刀を合わせてみよう」

と誘う。

 古典文学では、刀とか剣は男性器、玉は女性器の象徴です。

 ヤマトタケルの話には、刀を尻から刺すとか、刀を合わせるといった暗示的な表現が多いのは、男どうしの性愛を暗示しているのだと私は考えます。

 偽の刀をつかまされたイヅモタケルはあっさり殺され、そんなイヅモタケルを、ヤマトタケルはこんなふうにあざ笑います。

やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 黒葛多纏つづらさはまき さ身無みなしにあはれ”(イヅモタケルの大刀は飾りばかり立派で中身がない。お気の毒様)

 「あいつの刀は見かけ倒しだった」というわけで、これまた、残酷で意味深な歌です。

 

大塚ひかり(おおつか ひかり)

 古典エッセイスト。1961年横浜市生まれ 早稲田大学第一文学部で日本史を専攻。『ブス論』、個人全訳『源氏物語』全六巻(以上ちくま文庫)、『本当はひどかった昔の日本』(新潮文庫)、『昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか』(草思社文庫)など著書多数。趣味は系図作り。

イラスト・こうき