南定四郎という巨人 2

1931年生まれ、戦中派である南氏のライフストーリーは、それ自体が一つの大河ドラマである。彼は外地(樺太)に育ち、終戦とともに母の故郷である秋田に引き揚げた。大泊という「よそ者の街」から、東北の田舎町の「よそ者」になったのである。そこに居場所を見つけられない少年は文学に耽溺する。時空を超えて広がる小説世界は、現実にはない「どこか」を想像させる力を、そして想像することから始まる「未来」を、彼の心に宿すことになったのかもしれない。

(インタビュアー・伏見憲明)

外地での戦争の記憶

伏見  戦争が激しくなっていく過程は、あまり実感がないというお話しでしたけど、でも樺太ってロシアと接してるわけですよね。

南 日ソ不可侵条約があったから、それがあるかぎりは大丈夫というくらいにみんな思っていた。我々子どもはそんなこと深くは考えませんでしたけれどね。雰囲気はそうでした。だからね、防空演習なんていうのも町内でやってましたけど、それだって別に真剣にやってるわけでじゃない。遊び半分みたいなもの。ただ夜の灯火管制っていうのがすごく厳しくて、ちょっとでも光りが漏れてるとね、「何々さーん、光り漏れてますよ!」なんて、外で巡回してる人たちから叫ばれた。だから光りが漏れないように遮光紙っていう黒い紙を窓にぶら下げたり、電気の傘には黒い幕を張り巡らせたりした。戦争っていったらそんなような感じですよね。

伏見 空襲はあったんですか?

南 空襲はないですよ。全然ない。「サイパン玉砕」とかそんな情報はどんどん入ってきますから、気分的には少しは影響がありますけど、樺太は外地ですから、爆撃されなかった。ただ、出征兵士の遺骨が船で帰ってくると、家族がそれを波止場へもらいにいくわけですね。そしてその遺族を先頭にして行列が歩いてくるわけですよ。縁者とか在郷軍人だとかが一緒に。学生も全部沿道に並ぶために動員された。それが戦争体験の記憶かな。

伏見 あの、お身内の方とか、ご親戚の方で、赤紙が来て戦争に行った人はいなかったんですか。

南 兄貴は志願で予科練に行ったので、母親は毎日、陰膳をする。兄の食膳の前に写真を飾るわけですね。

あと、あそこは軍港でしたから、一週間に一ぺん、駆逐艦が樺太沿海の警戒領域を回って港へ入ってくるわけ。そうすると軍艦に乗ってる兵士が町へドッと出てくる。その中の水兵さんが二人、うちへ寄るのね。海軍の軍艦の中には酒保(売店)というのがあって、そこで羊羹とかを売っていて、自分たちは食べないで、それをお土産に持ってくるから、母親たちが彼らを歓待する。というのも、うちがその人たちの郵便物の受け渡しの場所になってるんですよ。

伏見 その水兵さんは、親戚とか?

南 いや、何にも関係ないです。たまたまその二人が買い物か何かでうちへ寄ったときに、「どうぞお茶でも飲んでって下さい」というようなことになって、以来、駆逐艦が入るたんびにね、うちに来ることになった。

伏見 お兄さんの予科練というのは、どちらなんですか。札幌?

南 いや、土浦です。茨城県の土浦。霞ヶ浦。

伏見 そんな遠くまで!

南 そうそう。

伏見 でも予科練ということは、戦争には……。

南 行ったんです。終戦の年の1945年に入ってからですが。3月の27日に沖縄から特攻隊でアメリカの軍艦に突っ込んで死んだ。

伏見 そうなんですか! お兄様、特攻隊だったんですね。

南 特攻隊です。予科練にいるときは、私も父親と1回面会に行ってます。

伏見 樺太から茨城まで?

南 そう。東京にもまだ空襲が起きてないときだったから、汽車の中で弁当食べた記憶がありますからね。米のごはんの。

伏見 当時、樺太から関東に出て来るのは、どうやって?

南 大泊から北海道の北端の稚内という港に8時間かかって行く。それから稚内から函館まで汽車で一昼夜、函館に着いて、そこから今度は青森まで4時間の船の旅。で、青森からはまた汽車です。乗り継ぎ乗り継ぎで茨城県の土浦まで行ったんですね。

伏見 そんなにまでして会いに行かれるわけですから、お父様はずいぶんご子息のことがご心配で。

南 親はみんなそうなんですよ。母親も、兄が休暇をもらって、秋田の叔母さんのところまで来たときには会いに行ってました。そのときは僕は行かなかったんですが。

伏見 お兄さんが亡くなられたとき、国から何か知らせが来たわけですか。

南 ええ、連絡は来ましたが、それは戦後のことですよ。戦争が終わってから何年も経って。

伏見 じゃあ、何年も消息がわからなかった。

南 わかんないです。

伏見 遺骨は……。

南 ないんですよ。厚生省の出先機関に母親が行って、「はい、遺骨です」と、いわゆる遺骨箱を渡された。それがものすごく軽くて、帰ってきて蓋を開けてみたら、中に紙きれが1枚入ってて、「1945年3月27日、沖縄海上で戦死」と、そう書いてあったんですよ。

伏見 お母さんはそのときは。

南 いやあ、すごい、もう泣いてましたよ。泣きわめいてた。

伏見 お兄さんは予科練に行かなければ死ななかった……?

南 もちろん。だって、まだ召集令状が来る前なんですからね。

伏見 そのお兄さんは、南さんにとってはどういう存在だったんですか。

南 兄貴はね、柔道で全島中学生柔道大会の1位を取ったくらいですから、ものすごい暴れ者だったんですよ。僕はどっちかというとひっそりと本を読んでる方ですから、対照的な性格だった。年中、柔道の稽古台で相手させられるのがイヤだったの(笑)。

伏見 じゃ、あんまり仲がいいっていう感じでは。

南 全然仲は良くないですよ。兄貴はね、僕をバカにしてましたからね。そもそも家業の商売をバカにしてたんですよ。人間は一生懸命、金儲けなんかやるもんじゃないって。それで、「だから俺は店を継がないんだ」と。「おまえは店が好きらしいけど、金儲けなんて下らないことの何が好きなんだ?」って。

伏見 お兄さんは勉強はできたんですか。

南 全然ダメ。勉強はできない。だから柔道で1位を取って「予科練へ入りませんか」って誘われた。在郷軍人で、海軍の上等兵っていう人が近所で洋品店を経営していて、その人が勧誘に来たんですよ。

 

伏見 南さんは、子どもの頃に家にあった童話を全部読まれていたということですけど、その頃も読書はずいぶんなさってました?

南 ええ、もう好きだったですね。

伏見 どんなものをそのお読みになったんですか。

南 物語ばっかりです。「トムソーヤの冒険」とか「ハックルベリー・フィンの冒険」。あれはホントに熱中して読みましたね。それから「怪盗ルパン」。その当時もう既に江戸川乱歩を読んでましたよ。夜読んでて恐ろしくてね。

伏見 江戸川乱歩は日本で最初にゲイ小説を書いたという評価もありますよね。

南 うん、「孤島の鬼」。

伏見 「孤島の鬼」は読んでなかったんですか。

南 その当時は読んでません。江戸川乱歩は「押し絵と旅する男」ですね。それから「パノラマ島奇譚」。

伏見 子どもの頃の読書体験で、自分にすごく大きな影響を与えた本は?

南 やっぱりね「トムソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」。今読むと全然違った印象を受けるんだろうと思うけど、当時あの話っていうのは、束縛から逃れる、自由を求めるっていう話ですからね。それであれは身分社会、アメリカの黒人なんかの状況が際立って描かれてるわけで。当時まだ差別までは感じなかったんだけれども、そういう社会に対して冒険を挑んでいく少年の姿に、すごく共感して読んでましたよ。

伏見 南さん自身は、その頃、束縛とか不自由なものは感じていたんですか。

南 いや、そういうものは当時、何もない。それから偉人物語。「野口英世」とか、「二宮金次郎」とかも読んだ。

伏見 子ども向けの雑誌みたいのはなかったんですか。

南 子ども向けの雑誌はうちでは置いてませんでした。大人の読み物、「キング」とか「婦女会」とか「婦人倶楽部」「主婦の友」だとか。