終戦、そして引き揚げ

伏見 さて、終戦はどういうふうに知ったのか。どういう体験だったのか、教えて下さい。

南 はい、それは、よく覚えてますね。数えで15。15歳以上の男は引き揚げちゃダメっていう通達が隣組の組長からあったから、母は私が14歳だと偽って一緒に船に乗った。

伏見 生まれ育った土地を引き揚げるというのは、どういうことだったんですか。

南 国境の町、敷香(しっか)という町で火事が起きて、すでにソ連軍が入って来てた。

伏見 じゃあ、引き揚げっていうのは、ソ連が来たから逃げろっていう?

南 そう。だから15歳以上の男は、防衛の任務に就けということですね。

伏見 ということは、南さんのご一家でお父様は残られたんですか。

南 そうそう、残ったの。

伏見 その残った人たちはどうなったわけですか。

南 残った人は、とくにすることもなかったわけですが、そのうちソ連軍が進駐してきて、銃をかまえて一軒一軒捜索したそうです。それで軍政を敷き、「働かざる者は食うべからず」ということで、何らかの仕事に就け、と命令が出た。仕事に就けない者は、汽車で1時間ぐらい行ったところで労働者として石炭を掘る。そういうことで、町から男がいなくなっちゃったらしい。

僕の同級生で残った連中もいて、その中の一人と、戦後何年も経ってから東京で会った。聞けば、残った同級生は学校へ行ったんだけれども、もう先生たちが授業はやらず、教員室で酒飲んでるんだって(笑)。それで学生は遊んで帰ってくるだけだったから、大変面白かったと言ってました。でも、そのうち学校も兵舎になっちゃって、誰も行かなくなった。

伏見 女性は全員引き上げたわけですか。

南 いやいや、残ってますよ。船に乗れなかった、乗り遅れた人はいっぱいいるわけですよ。

伏見 あ、そうなんですか。じゃあ船に乗る、席を確保するのも大変だったんだ。

南 大変、大変! 船は2隻しかないわけ。みんなドッと押し寄せるわけで、はしご段みたいのが1人ようやく通れるような幅で、足元のふらついた人なんかが岸壁から下にドボーンと落ちるでしょう。そうするともうそれっきりなんですよ。誰も助けに行かないもん。荷物背負ってる人が後ろから押されて、とてもこれは背負いきれないとなったら、それをボーンと捨てる。

伏見 船の中は立錐の余地もなく?

南 ただ床に座るだけ。隣もピタッと人がいる。家族がガッと固まって座ってるんですね。

伏見 その船はどちらに向かわれたんですか。

南 稚内へ行きました。

伏見 で、南さんはそれからお母様のご実家に行かれたんですね。稚内から秋田へ。

南 そう。稚内にも母親の親戚が1軒あって、そこに1泊した。それで今度は汽車に乗って函館まで行った。

伏見 実家や親戚があった方はいいけど、ない方は引き揚げるたって…。

南 とにかく北海道まで行けば、北海道は日本の領地だからね。行けば国が何とかしてくれるだろうと。

伏見 樺太に自分で来た人はともかく、そこで育っちゃった人にとっては、樺太がもう故郷なわけですよね。故郷を捨てるというか、そういうお気持ちはどんな感じだったんですか。

南 いや、それはね、過去のことよりもこれからのことなんですよ。これから先どうなるんだろう。どこへ行くんだろうというね。

伏見 もう帰ってこれないって思ってたんですか。

南 ええ、もちろん。だから父親と別れるときは、二度と会えないなと思いました。

伏見 お母さんはどんな感じだったんですかね。夫と別れるというのは。

南 いやそれはね、母親としては、夫と別れることよりも、子どもを育てなくちゃいかんという、そっちの方に気持ちがあったみたい。父親は引き留めて、大げんかをして、それでも子どもを連れて引き揚げたわけですよ。

伏見 お母様と一緒に引き揚げたのは、南さんと弟さんが2人と。

南 妹が1人。で、妹を僕が背負ってね。

伏見 お母様は4人も子どもを連れて。やっぱ母親って、夫よりも子どもの方が大事なのかもね。お母様は気丈な方だったんですね。

南 ものすごく。

伏見 ただご実家といっても嫁に出しちゃった娘だから、どうなんですか。

南 うん、母親の母親がまだ生きてて、母親の弟っていうのが大工の棟梁で、樺太で仕事をしてたんですよ。樺太庁がある豊原で建築請負業をやっていた。

伏見 それは単身赴任で、っていうことですか。

南 単身赴任っていうか、秋田に家族は置いてったのよ。それで現地召集で兵隊に取られて、満州に行ったんだけど、現地で戦死しちゃったの。

伏見 あらまあ!

南 だから留守を守ってる未亡人のところへ我々は引き揚げてきたんですよ。

伏見 てことは、未亡人にとってはお姑さんがいるから、南さん家族にとってもそんなに居心地が悪いわけでもなく。

南 祖母にしたら、娘が帰ってきて、孫も来たわけですから、もう嬉しがってね。快く迎えてくれた。

伏見 お母様のご実家は。

南 漁業なの。農業をやる場所じゃないんだ。もう山がね、海まで迫り出してきて、こんなに狭い浜辺に300戸だけ家があるという部落だったので、みんな出稼ぎに行くわけ。山に少しは畑はあったから、自分たちが食う分くらいは採れるんだけど、お米はね、田んぼがないから仕入れなきゃいけない。けれども、他のものはあるわけね。だから自給自足ができるんですよ。だけど、母親としては、そこには小学校しかないから子どもの教育に何もならないというんで、一ヶ月くらいでそこを離れた。それで、母親の妹というのが秋田市の土崎(つちざき)港で所帯を持ってたので、そこへ転がり込んだんです。僕はそこにある中学校に転校した。

伏見 教育熱心なお母様だったんですね。でも、生活費は……どうしてたんですか。

南 だから母親はすぐ働き出しましたよ、港町ですから、魚の加工業があるんですね。陸揚げされた魚を箱詰めて送る仕事があって、そこへ働きに行ったんですね。

 

 引き揚げ先では、文学に耽溺した

伏見 南さんは内地に転校されて、学校生活はどうだったんですか。いじめられたりしたんですか。

南 いじめられましたよ。もう大変だった。だから友達はいなかったんですよ。

伏見 それってやっぱり田舎だから、よそ者に対して厳しいとか、そういうことなんですか。

南 もちろん。当時はね、東京から疎開した人たちもいたんですよ。彼らは土地の生徒よりは頭がいいわけですよ。それに言葉も東京弁でしょう。そうすると土地の子供たちは劣等感を持つから、力で相手を負かすそうとする。何かにつけて難癖をつけては暴力でいじめる。私もずいぶんいじめられましたよ。だからね、絶対口きかなかった。口きくと因縁をつけられるから。それで時間があれば本を読んでましたね。日本文学全集だとかさ。

伏見 日本文学全集でどんな作家の作品がお好きだったんですか。

南 あのね、永井荷風が好きでしたね。

伏見 中学生にしてはませてましたね。

南 マセてた、そうなの(笑)。女の色気の話ですからね。

それから……菊池寛も好きだった。あれはもう簡単明瞭で、実にはっきりしたテーマだったから。あの頃、僕は小説家になろうと思ったんです(笑)。たまたま母親がうちにいたときに、「おまえ将来、何になるんだ?」って聞かれたのね。それで、「小説家になりたい」って言ったの。そうしたら泣いてねえ、怒るんですよ。「そんな道楽商売をやろうなんてとんでもない!」って。

伏見 もともと本屋だったのに(笑)。

南 当時は文士なんてそういう評価ですよ。太宰治が盛んに読まれた頃ですからね。太宰治とか織田作之助なんて破滅的作家と言われたわけでしょう。人生を破滅の方向に持っていく、何の希望もない職業なわけですよ。

伏見 でも、南さんの世代で、小説家になりたかった人は多いですよね。

南 いや、そうじゃないですよ。だってね、秋田だから、そんなのに憧れるのは僕くらいしかいなくて、国語の時間、必ず「いい作文だ」って読まれるのは僕の作品だったの。

伏見 周囲からは、文芸好きのヘンな男の子みたいな受け止められ方!?

南 そうなの、そうなの。だから全然相手にされない。

伏見 それってジェンダー的な意味で言うと、ちょっと男性性から逸脱してる感じですか?

南 そうかも。私はその頃、痩せていて全然逞しくないわけ。他の子どもたちは家が農家だとかそんなのばっかりなんだからね。私が編入した中学校は、その地域で一番の中学を落ちたやつが入る受け皿だったから、乱暴者ばっかりなんですよ。だから文化的な素養なんていうのはほとんどない。そういう意味では目立ったの。自分で文集を作ったりして、それを国語の教師のところに持って行って批評してもらったりね。

伏見 思春期の南さんにとって、永井荷風というのは、いったい何が良かったんでしょう。

南 一番最初に読んだのは「ふらんす物語」。彼がアメリカからフランスに渡って見た、今で言えばルポルタージュみたいなもの。でも、全然記憶にないですよ。題名だけ憶えている。ある意味で、私が育った樺太の街は、秋田に比べるとハイカラだったんですよ。人工的に造った街だから。映画館も土崎には1軒しかなかったけど、故郷の大泊には3軒もあったからね。

伏見 そういう文化的な、西洋的なものに対する憧憬があったんだ。

南 そうです。だからね、まだ秋田に残ってた東京へ帰れない疎開者とは仲良くなりましたよ。その日本文学全集も、彼らが持ってたのを借りたんだから。叔母さんのうちに厄介になっていたときに、斜め向かいに疎開していた一家があって、その父親っていうのが松田ナントカっていう映画監督だった。それでそういう本が本棚にいっぱいあったんですよ。

 

「解剖ごっこ」で性の目覚め

南 それから学制改革で中学は3年で新制中学になって、新制高校に入った。

伏見 その頃ちょうど思春期ですから身体の変化もあるわけでしょう。

南 中学1年のときに、勤労動員で、山の斜面に穴を掘って、そこに飛行機を格納する工事をやらされた。モッコ担ぎって言って、縄を網状にして4隅に棒をさしこんで2人で土を入れて運ぶ作業をやらされたんです。昼飯を取って午後1時まで休みでしょう。寝転がって空を見て休んでいると、「解剖ごっこ」というのがあって、仲間が襲ってくるわけ。私があるときその標的になって、逃げたんですけど、追いつかれて、押し倒されて、仰向けにされて、ズボンを引き剥がされちゃった。パンツは引き剥がさないんだけれども、パンツの上から触られたんですね。それで、「あー、勃起してる!」なんて囃されて、彼らはサッと逃げていっちゃった。それがものすごく気持ちが良くて、もっと触ってくれればいいのにって思った(笑)。それがいわゆる初めての性体験。

伏見 そのときに精通があったんですか。

南 精通はないない。ただ触られただけ。

伏見 精通の記憶ってあるんですか。

南 それは高校になってからですね。

伏見 中学生ではもう毛なんかは生えちゃってたわけですか。

南 それは高校2年ぐらいじゃないですかね。

伏見 けっこう未熟なほうだったんですね。

南 高校に通ってくるのに、汽車で通ってくる学生がいたの。奥羽本線から分かれる支線があって船川線ていうんですけど。船川という港町があって。その汽車がね、車内で石炭ストーブを焚いて、その周りにみんな集まって乗っている。そうすると大人連中が学生を冷やかすのね。「おい、おまえ、毛っこ生えたか」って方言で(笑)。学生が恥ずかしがるのをからかうんですよ。だから、高校生はまだそのぐらいの年頃なわけですよね。

伏見 知識はあったんですよね? 永井荷風なんか読んでるわけだから。

南 知識はもう引き揚げる前からありました。中学1年のときに、私が座ってる席の後ろの生徒が、産婆さんの息子だったんですよ。その子のうちには医学書が置いてあって、どうして子どもが生まれるのかが書かれてあるから、そのことを得意気にしゃべるわけよ。そこでもう既に知識は得てる。

伏見 そういう年頃のときに、自分の同性愛の傾向っていうのはわからなかったんですか。

南 いやあ、そんなこともないですよ。だって男の生徒が好きだったからね。というのはね、兄貴が予科練に行ったでしょう。同じ街からやっぱり予科練へ行ってる先輩がいて、家族同士のつきあいというのがあったんです。それで向こうはサラリーマンの家の子だから、ハイクラスな感じなんです。着てるものにしろ何にしろ。それがまたかわいらしくて、非常に憧れてね、そこのうちに母の作ったぼた餅のお裾分けに行くと、玄関をその先輩がサッと通ったりするわけよ。ちょうど玄関脇にトイレがあって、小便してる音が聞こえる。それを聞いて胸がドキドキしたからね(笑)。

伏見 そういう自分を、ちょっとおかしいんじゃないか?とか思うことはなかったんですか。

南 全然思わない。むしろ憧れの的だったそいつとどうにか話をしたいなと思うばかりで。なかなか話ができないんですよ。

伏見 それは、自分の中では憧れっていう概念で了解してるわけですか。

南 そう、憧れ。

伏見 でも他の同じ年頃の男の子は女の子に恋心を抱くわけで。

南 だけどね、本の世界、例えば江戸川乱歩の「少年探偵団」だとかでは高畠華宵が美少年の絵を描いていて、胸をときめかせて見ていましたから、それが同性愛だとは思わないんですよ。美しいものへの憧れ。例えば、彼が描いた美少年の侍、若侍は美剣士という表現だったんですよ。田中角栄が弥生美術館が開館したときに、華宵の絵「さらば故郷!」の前で涙を流したっていう逸話があるくらいで。角栄が新潟から東京へ出てくる、その気持ちを掻き立てた絵なんだって。

伏見 へえー。角さんもちょっとそういう傾向があったんですかね。

南 そうかもしれませんね(笑)。

伏見 えーと、当時マスターベーションというのはしてたんですか。

南 マスターベーションはね、まだしてない。それは引き揚げてから、秋田に来てからですから。

伏見 夢精も?

南 そういうのはなかったんですよね。

伏見 他の男友達とかに、高畠華宵が好きという話しはしましたか。

南 言わない、言ったことないですよ。特に隠そうと思ってたわけでもないけど。

伏見 やはり、江戸川乱歩の本の世界というのは、同性愛の傾向がある人には訴えるものがあったんでしょうかね。

南 もちろんそうですよ。「押し絵と旅する男」なんていうのを読んだときには、すごくそういう興奮しましたよ。性的な。

伏見 具体的にマスターベーションをしたのは?

南 あるとき、木の幹かなんかに股間が当たってこすれたんです。そうしたらすごくいい気持ちになって、ヒューッと何かが出たんです。何なのかなと不安になったのだけど、たまたまその直後、高校の教師が性教育をやったんです。教師が、自分でよごすという意味の「自瀆」という文字を黒板に書いた。「自瀆は体に害だからやらないように」と。そうしたらさ、マセてるやつが休み時間に自瀆について解説を始めるわけだ。それで、あっ、あの木でこすれたのは自瀆なんだなと。それからマスターベーションをやるようになった。えーあれは、高校2年。

伏見 やるなって言うと、かえってやりたくなる!(笑) そのとき同性愛とマスターベーションは結びついていたんですか。

南 マスターベーションの対象は…

伏見 性的なもの?

南 やっぱりね、高畠華宵とか、伊藤彦造の絵ですね。伊藤彦造は「さぶ」みたいな絵でね、虐待される側の方に異様に性的な共感を覚えて、そういうイメージを思い浮かべて、マスターベーションをしてたような気がする。

伏見 そういうSM的な絵を想像したりとか、マスターベーションという行為を含めて、ちょっと自分は性的におかしいんじゃないかみたいなのって思わなかったんですか? しつこいようですが。

南 思わなかったね。登場人物みたいにその世界にドップリとはまっちゃってるんだから。(続く)

 

南定四郎 

1931年、南樺太生まれ。1974年にゲイ雑誌「アドン」を創刊。1984年「IGA日本」を設立以降、日本のゲイ解放運動において先駆的な役割を果たし、パレードや映画祭、HIV啓発運動などを実現。現在、沖縄在住。

 

 

近影・撮影/ 中野泰輔

秋田のSL、秋田の漁港(資料画像)