名作劇場 1

エスムラルダ先生のご好意で、「QUEER JAPAN vol.3 魅惑のブス」(勁草書房、 2000)に掲載されたブス論の傑作「私のブス人生」を、アデイonline に再録させてもらうことになりました。当時「早すぎた自叙伝」として各方面から高い評価を得、発表時から17年たった今でも、これだけ自身の「ブス」に向き合ったノンフィクションはないと言っていい名作です。

昨今、気軽にブスを自認したり、オシャレにブスを語ったりする風潮がありますが、ブスを語るなら先ずこの自伝を読め! これを読まずしてブスを語る資格なし! と断言させていただきます。若き日のエスムラルダ先生の掘り下げ方から、同じ痛みを抱えるLGBT世代の方々も大いに学ぶ点があることでしょう。

 

「私のブス人生」 エスムラルダ(ライター/ドラァグクィーン)

ブス、誕生。

私はこれまで、ひたすら「ブス」として生きてまいりました。しかも「色気のあるブス」でも「かわいげのあるブス」でもない、タダのブスですから、救いがありません。

まず、顔の土台に問題があります。

今の顔の輪郭は、苦労して手に入れたものでございます。幼い頃の私は丸顔で、頬には豊かに肉がついておりました。それが嫌でたまらなかった私は、十代半ばに一念発起し、毎日風呂に入る度に顔をマッサージしたり、水分摂取を控えたり、といった、血の滲むような努力を重ねたのですが、その結果得たものは、夏になるとゲッソリとコケる頬、そして睡眠不足にでも陥ろうものならたちどころにクマができる、薄すぎる皮膚だったのでございます。

さらに、顔の造りが派手……というより、大ざっぱです。

「見つめられると、石になるのではないか」という恐怖感を他人に与える、無駄にデカい目。顔の真ん中でデーンとあぐらをかいている、ずんぐりした鼻。すべてのパーツが、声高に自己の存在を主張をしているようなこの顔は、私が理想としている「主張の少ない、あっさりと整った顔」とは正反対の位置にあります。時には、私の顔を何とか前向きに評価しようとして、「個性的な顔」「一目見たら忘れない顔」「舞台向きの顔」などと言って下さる方もいるのですが、「個性的」は「ブス」とほぼ同義語ですし、「顔を覚えてもらえて良かったァ」と思うような機会もなければ、舞台仕事で生計を立てているわけでもない私にとっては、何のメリットもありません(注1)。

このような難点だらけの顔のパーツの中でも、とりわけ私を悩ませてきたのは、「唇の形」でございます。

今を去ること二八年前(*2017年現在だと四五年前)、私は上唇や上顎が真ん中で裂けた状態で、この世に生まれてまいりました。いわゆる「口唇裂」「口蓋裂」でございます。当時の技術では、成長過程にある子供に満足な整形手術を行うことは不可能だったらしく、一八歳になるまで、私の鼻はひどくつぶれていましたし、上唇の両端は、瘤のようになっておりました。

母は、「自分のせいで、こんなことになったのかもしれない」という負い目があったのか、私のために良かれと思ったことは何でもしてくれましたし、心の中では常に「何があっても上を向いて歩いていける、強い子に育ってほしい」と願っていたそうです。しかし気になることがあると、ついつい見てしまうのが人情というもの。通りすがりの人の視線にしばしばさらされてきたおかげで、私はいつでもどこでも「誰かに見られてるッ。ひょっとして、アタシに気があるのかしらッ」と思ってしまう、「自意識(というより妄想)ばかりが強い子」になってしまいました。

一方で、昭和一〇年生まれの父には、「男は顔じゃない」と口に出して言ったりするような昔気質なところがあり、私の容姿にもさほど関心がないように見えました。しかし時折、私を招き寄せ、つぶれた鼻をつまんでは「鼻高くなれェ、高くなれ」などと、呪文のように唱えておりましたから、父は父なりに、私を案じてくれていたのかもしれません(注2)。

けれども幼い頃の私は、唇のことを友達にからかわれて「嫌だなァ」と思ったり、あるいは素敵な顔立ちの友達に対して「ああ、あんな顔に生まれたかったなァ……」といった憧憬や羨望、嫉妬を感じたりしたことはあったものの、自分の容姿について、あまり悩んではいなかったような気がいたします。それどころか、当時から計算高かった私は、「学校で口喧嘩した友達が、『唇、デコボコしているくせにッ』と悔し紛れに叫んだのを担任にチクり、相手を一方的に悪者にする」「生徒会役員の選挙演説などで、唇をネタに同情を買い、票を集める」など、悪事(しかもセコい)の限りを尽くしておりました。

しかしそんな、どうでもいい人たちからの同情の寄せ集めで満足していられる時期は、長くは続かないものです。

高校生になると、それまで「目立つこと」「周りの人から『いい子』だと思われること」ばかりに費やされがちであった私の自意識は、徐々に自分の外見へと向かいはじめ、周囲の影響を受けて服装や髪型に頓着するようになりました。「ひとり丸顔追放キャンペーン」を行ったのもこの頃です。そして同時に、私は「手術を受けて『普通の唇』を手に入れる日」を、今か今かと待ち望むようになったのでございます。

 

ブス、男に惚れる。

ところで私には、物心ついた時からもう一つ、厄介な「問題」がありました。小学校低学年の頃にはすでに、身体検査などで垣間見る同級生の身体にドキドキし、「自分はどうやら、同性に恋愛感情を抱いたり、性的な興味を持ったりしているらしい」と自覚しはじめていたのです。

ただ、恐ろしいことに、当時から私は何故か「同性に対する恋愛感情や性的な興味を、絶対に他の人に知られてはならない」と考えておりました。そして、幼児の身でありながら、カモフラージュのために「特定の女優や同級生の女の子を好きだ、と吹聴する」など、涙ぐましい努力を重ねていたのです。そんな私に、母はまんまと二〇年間も騙されていたのですから、我ながら大した演技力であったといえましょう。

しかし無駄に演技力は磨かれたものの、それによって私の「恋愛」に関する成長が著しく阻害されたことは否めません。周りの友達の何人かが、意中の異性とつきあったりする頃になっても、私は本当に「好き」な相手には、とても告白などできず、「いいなァ」と思った「誰か」(大抵、同じ学校や塾の生徒)と、あらゆるコネクションを駆使して「友達」になったり、それが叶わない場合には、ただひたすら見つめたり、といった、他愛のない「恋」を繰り返しておりました。幸か不幸か、私は「セックス」など話題にも上がらないような、牧歌的な核家族の中で育ちましたし、通っていた高校も「真面目」な生徒が多く、割とのんびりしていましたから、当時はそれだけで、十分満足していたのでございます。

そんな私が「彼」を意識するようになったのは、高校二年の初夏の頃でした。

「彼」は、私が通っていた高校の向かいにあった、中・高一貫の男子校の生徒でした。たまたま住んでいる街も一緒だったため、毎朝のように駅や電車で顔を合わせているうちに、私は、「彼」の少し眠たそうな目や、常に上気しているように見えるほの紅い頬や、顔や身体を覆っているふんわりと柔らかそうな肌に、すっかり魅了されてしまったのでございます。しかも「近づきたいけど近づけない」「話しかけたいけど話しかけられない」という状況は、苦しみと同時に快楽をももたらし、私は「これが恋というものね……」と一人で勝手に錯覚し、盛り上がっておりました。

あの頃、私は「彼」に会うために、毎朝必死で同じ電車に乗ったものです。何かとてつもない偶然が起こって、「彼」と「友達」になれる日がくることを夢見ながら……。そんな想いが通じたのか、いつしか「彼」も私を意識するようになり(「何見てンだ、あのブス」と思っていただけかもしれません)、私たちはいつも「顔は知っているが、話したことがない」という微妙な状態のまま、ヘビとマングースのように対峙しておりました。そう。私が「一刻も早く、手術を受けたい」と考えるようになったのは、「成長期が終わりに近づき、手術をしても差し支えない状態になった」ためでもありますが、何よりも、お互いに顔だけしか知らない「彼」に「少しでも美しい顔を見せたい」と思ったからなのでございます。

ちなみに「彼」との関係は、手術を受けた後もまったく変わることはなく(当たり前)、私が高校を卒業してからは、会うこともなくなってしまいました。しかし性格はおろか、名前さえ知らない、この「彼」への「片想い」は、少なくとも三つのことを私に教えてくれました。それは「世の中には容姿だけで、ここまで他人を魅了する人がいる」という事実、「アタシも、そんな人になりたいッ」という無謀な欲望、そして「気持ちを秘めながら、自分で勝手に『恋心』を盛り上げていく」苦しさと心地良さ、でございます。

 

ブス、絶望する。

高校二年の終わりと高校三年の夏に、私は二回にわたって整形手術を受けました。シリコンが入って、以前よりもはるかに高くなった鼻に、「普通の形」に近づいた唇……。念願かなって「彼」に「少しは美しくなった顔」を見せることができ、私はひどく満足したものです。

もっとも、欲深な私は、それでもまだ「どうせシリコンを入れるなら、もっとスウッと高い鼻にしてもらえば良かった……」とか「唇のデコボコ、もう少し何とかならないのかしら……」とかいった、罰当たりな不満を抱えておりました。手術後の診察の際に、担当医師から「まだちょっとデコボコしているけど、まあ、男の子だからいいか」と言われた時などは、心の中で密かに「冗談じゃないッ。アタシはオンナだよッ。アンタ、まさか手ェ抜いたんじゃないだろうねッ」と毒づいたものです。しかしその時点では、「もう一度、最終仕上げの手術が行われる」ことがわかっていたため、私は「それさえ終えれば、きっともっとキレイになれるハズ」と、先に望みをつないでおりました。

「最終仕上げの手術」を受けたのは、それから二年半後のことでした。二〇歳の誕生日を数日後に控えた私は、「先生、お願いだから手ェ抜かないでよッ」と、やはり心の中で懇願しつつ、「いよいよ『普通の唇』が手に入るんだァ」と、浮かれたものです。ところが……。手術後の痛みや腫れが治まるにつれて、私の気持ちはどんどん、暗くなっていきました。唇の整形にあたっては「上唇の左右の瘤の間に、下唇の一部を移植する」という方法が採られたのですが、二十年近くも別々の道を歩んできた二つの唇は、やはり完全に一つになってはくれなかったのです。

「他のパーツも、実は(ひどく)マズい」などとは夢にも思わず、「手術さえ受ければキレイになれる」と盲目的に信じこんでいた私は、この時、自分の容姿に対して、生まれて初めて深い絶望を覚えました。自意識が人一倍強く、下手にプライドが高い私にとって、「他人から『美しい』と評価される可能性がなくなってしまった」というのは、どうにも受け入れ難いことだったのでございます。母や姉は、私の鼻や唇を見ながら「キレイになったねェ」と言ってくれたのですが、家族にそう言われたところで、嬉しくも何ともありません。すべての気力を失った私は、退院するまで毎日、備えつけのテレビ(一時間百円)の料金箱にカシャコンカシャコンと硬貨を入れながら、「ああもう、こんな人生、とっととリセットしちまいたい……。今度は絶対、美人に生まれ変わって、幸せな人生を送るんだッ」と、そんなことばかり考えていたものです(しかし、もっとブスに生まれ変わったりすると目も当てられないので、死ぬのはやめました)。

時あたかも春。暖かい光を浴びて、あらゆる生命が活動を始めようとしている季節に、病院の日焼けした畳の上で、これからの長い人生を思い、私は一人、途方に暮れておりました。けれどもそれは、「顔」をめぐる闘いの、ほんの幕開けにすぎなかったのでございます。

 

ブス、「二丁目」にデビューする。

この頃、時を同じくして、「同性に対する恋愛感情や性的な興味」も、私にとっては抜きさしならない「問題」となりつつありました。

それまでの私は牧歌的な環境の中で、「受験」をはじめとする目の前の課題に追われながら、「いつかは男が好きなのも『治って』、女の人を好きになるだろう」と考えておりました。自分の「セクシュアリティ」と真っ正面から向き合うのを、常に先送りにしていたのでございます。

しかし大学へ入った途端、思いもよらない事態が発生いたしました。クラスでもサークルでもバイト先でも、私の惚れたあの人が、私の好きなこの人が、ほんのついでに言うと、仲の良かった女友達が、「やめてェッ。置いていかないでェッ」と叫びたくなるほどの勢いで、次々と(男女の)カップルになっていくのです。にわかに色気づきはじめた人々のエネルギーに、「異性には性的な関心がなく、さりとて同性への気持ちと向き合う勇気もなかった」私はとてもついていけず、ここへきてようやく「男が好きなのが『治る』様子もないし、このままだとずっと一人ぼっちだ……」と悩むようになりました。そして、さんざん迷った末に、「何か行動を起こさなければ、ダメになるッ」と思った私は、雑誌でその存在だけは知っていた「(新宿)二丁目」という街へ、足を踏み入れることにしたのです。二十歳になって二カ月半が過ぎた、五月の最終土曜日のことでした。

初めて二丁目を訪れた時のことは、今でも鮮明に覚えています。

その日は夕方に通り雨があり、濡れたアスファルトから立ち上がった蒸気は靄となって、そこかしこに漂っておりました。街を彩るバーの看板や街灯がボンヤリと霞んでいるのも、初夏の週末だけあって、通りをおびただしい数の「ゲイ」が行き来しているのも、タダでさえ気持ちが上ずっていた私には、とてつもなく幻想的な光景に見えたものです。

最初、私は「誰かに声をかけられないかなァ」「でも、声かけられちゃったらどうしよう」などと、頭の中でさびしくシミュレーションしながら、しばらく通りをうろついてみました。何一つ情報を持っていなかったため、とにかく水先案内人を必要としていましたし、二丁目を訪れるにあたっては、「ひょっとしたら今日、誰かに見初められて、初体験なんてしちゃうかもッ」という期待(と不安)もあったからです。しかし当然のことながら、そんな奇特な人は現れません。仕方なく私は、若者が多く出入りしている、一軒のバーへ飛びこんでみることにしました。

扉を開け、カウンターの前に立った途端、中の空気がピーンと張りつめ、たくさんの視線が集まってくるのがわかりました。幼い頃から目立ちたがり屋で、常に心の中で「アタシを見てェッ」と叫びながら生きてきたような私ではありますが、あからさまに値踏みされる、というのは初めての経験でしたし、それに耐えられるだけの自信もありません。この時ばかりはさすがに、「アタシを見ないでェッ」と身体を固くしたものです。ところが……。次の瞬間には、視線は一つ残らず私から逸れておりました。

「『ゲイの世界』って、結構シビアかもしれない」と思いながら中へ入った私は、まず店内を彩る青い照明や、設置されたモニターから絶えまなく流れているMTVに圧倒されました。それらが醸し出す「オシャレ」な雰囲気は、私の身の回りにはついぞ存在しなかった類のものだったからです。しかも店の中にいる客は、顔の造りも服装のセンスも良く、自分の容姿に自信を持っていそうな若者ばかり(注3)。こういったものすべてに魅了されながら、一方で私は「こんなハイレベルな世界で、アタシなんかが果たして相手にされるのだろうか」と、ひどく不安になっておりました。

結局その日、しばらく一人でボーっとした後で、「これじゃ、ここへ来た意味がないッ」と考えた私は、あるグループの会話に無理矢理入れてもらったのですが、「何でアタシたちが、こんなブスの話し相手してやんなきゃならないのさ」と思われているような妄想(事実かもしれません)にかられ、終電を口実に、挨拶もそこそこに店を出ました。「ひょっとしたら今日、初体験なんてしちゃうかもッ」どころではありません。新宿駅へと向かいながら、私はつくづく「彼らに喜んで受け入れてもらえるような容姿と、ああいった場所で怖じ気づかないだけの自信が、アタシにあったらなァ」と思ったものでございます。

それから再び、悶々として過ごす日々が始まりました。あの日の「幻想的」な光景を思い出す度に、「もう一度行きたいなァ」という、郷愁にも似た気持ちにかられてはいたのですが、一方で「本当に自分は『ゲイ』なのだろうか。早まって『ゲイの世界』に入ってしまって、もし違ったら、後で悔やむことになるのではないか」といった、愚にもつかない考えにとらわれていたからです。また、あの日、バーで話をした若者たちが「この子、一八歳なのに、もう七〇人くらいとヤッているのよォ」などといった会話を繰り広げていたのも、無意味にオクテだった私には衝撃的で、「この世界で、自分は果たしてやっていけるのだろうか」と思っておりました。

さらに、「『ゲイの世界』にデビューしても、自分の容姿では、(恋愛やセックスの対象として)愛されることなどないのではないか」という不安もありました。当時、まったく知識がなく、日常生活の中で「ゲイ」に遭ったこともなかった私は、「『ゲイ』同士が、会社や学校など、日常的な場所で出会ったり交流を深めたりすることはないのではないか」、「『ゲイの世界』はとにかく『外見一発勝負』で、『外見的にはタイプじゃないけど、日常的に会っているうちに、親しみを覚え、いつの間にか惹かれるようになった』などということは、起こりえないのではないか」「あの日、バーにいた若者たちも、週末だけ、日常生活から隔絶された場所である二丁目に集い、そこで男を見つけているのではないか」と考え、「自分の容姿がシビアな他人の目にさらされることによって、(容姿に関する)プライドが完全に損なわれてしまう」ことを、本能的に恐れたのです。

この時期、「二〇年間我慢してきて、ようやく自分以外の『ゲイ』が目の前に現れたというのに、相手にもされなかったらどうしよう」と勝手に煮詰まっていた私は、「ゲイに生むか、こんな唇に生むか、どっちかにしてくれれば良かったのにッ」と心から母を恨み、「ゲイでブスだなんて、二重苦もいいところだよッ。神様の意地悪ッ」と運命を呪っておりました。自分の周りに他に「ゲイ」がいるかどうか、まったくわからなかった頃は、「容姿がどうであれ、同性に『恋』をしても、どのみち成就は不可能」と割り切ることができたのに、「ひょっとしたら、何とかなるかもしれない」と思えるようになったことで、かえって私の中に執着が生じてしまったのでございます。

しかし、そんな恐れや不安はあったものの、「同性が好きな自分を何とかしたい」という気持ちは、もはや抑えることはできませんでした。

数カ月後、近所の書店で偶然、あるゲイの活動団体が出版した本を見つけた私は、藁にもすがる思いで、その団体に電話をかけました。そこは「真面目」な人が集まった「信頼できるところ」のように思われましたし、「サークルなら、『ゲイ』と日常的に会う機会もあるだろうし、見た目に難があるアタシにも、ひょっとしたら彼氏ができるかもしれないッ」とも思えたからです。結局、団体自体は半年ほどで辞めることになったのですが、いい友達に恵まれ、それをきっかけに、ようやく「同性が好き」な自分を受け入れられるようになった私は、徐々に「ゲイの世界」に深入りしていきました。