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『仮面の告白』にはそれほど夢中にならなかった

伏見 えっと、三島由紀夫の『仮面の告白』が河出書房から出たのが昭和24年(1949)で、ちょうど南さんが18歳のとき。18歳ということは高校3年生ですよね。同時期に「風俗奇譚」でかびやかずひこのルポを読んで、すでに同性愛については知っていたわけですが、自分の欲望に対してはどうしようと思っていたんですか。見ないようにしようとしたとか、治さなきゃいけないと思ったとか…。

南 いやいや、そんなことはない。逆で、その世界にのめり込みたいと。だって、かびやかずひこさんのルポルタージュの現場を見に行きたいと思って、東京に出てきたんだから!

伏見 時代からすると、普通、「そんな変態に自分がなってしまったらどうしよう」みたいに悩んだりするわけじゃないですか。後付けで軽く考えているということはないですか。

南 いや、そうじゃなくて、とにかくそこに行きたいと思った。それでそのために計画を練った。

伏見 行きたいと思いながらも、後ろめたさみたいのは。

南 全然ないないない。

伏見 ここ、しつこく聞きたいんですけど、本当にそうなんですか?

南 うん、そう。前に話した解剖ごっこの記憶があって、あんな気持ちのいいことならもっと味わいたい、そこに行きたいということなの。

伏見 なんか前向きですね(笑)。

南 前向きかどうかわからないけど、本能的なんですね、官能に対して。

伏見 性欲が強かった?

南 性欲が強かったんです。

伏見 「風俗奇譚」を発見して以降って、マスターベーションはそういう雑誌でやるようになったんですか。それは買ったんですか。

南 買ったんじゃない、立ち読み。

伏見 買わなかった理由は、やっぱり後ろめたさじゃないんですか。

南 いや、お金がなかったんですよ。

伏見 じゃあその記憶を家に帰ってから反すうして。

南 頭に叩き込んで帰ってきたからね(笑)。もう別のものなんか全然関心持たなかったですね。

伏見 話が飛びますけども、かびやさんとは、後に東京で出会いました?

南 いや、全然出会ってない。

伏見 そうなんですか。南さんがゲイメディアをやり始めた70年代前半なら、まだ彼も執筆活動をしていたはずなんだけど。

さて、三島由紀夫に戻ると、『仮面の告白』はどのように知ったんですか。

南 だって書評がずいぶん出たんですよ。メディアで騒がれたんだよ、やっぱり。そのときに自分では同性愛ということに自覚的だったから、もうすぐに読みましたよ。

伏見 買ったんですか。

南 買ってませんね。本屋で立ち読みしたんじゃないですか。何回かに分けてね。

伏見 どんな印象だったんでしょう。純文学で正面から同性愛を扱った作品は、当時、他に類がないわけで。18歳の南青年は何を思ったんでしょうか。

南 それがあんまり思い出せないんですよ。『仮面の告白』についてはたいした感想を抱かなかったのかもわかりません。ただ、場面場面は記憶に残っていて、自分と同じような傾向の人がいるんだなあ、というくらいですかね。むしろ積極的な感想を抱いたのは、『禁色』の方。あれは連載中から読んでたから。

伏見 『禁色』に行く前に。『仮面の告白』には、性的な興奮みたいのはあったんですかね。

南 興奮はあったでしょうね。ワクワクして読んだんじゃないかと思う。

伏見 周りの人たちは終戦後まもなくあんな小説が出て、どんな反応だったんですか。

南 全然無関心だったですよ。

伏見 無関心だった!?

南 ええ、話題にならなかった。

伏見 書評では見かけたけれども、周りでは別に誰も読んでないみたいな。

南 そうです。私自身は、文芸誌に三島由紀夫が写真で登場していた記憶があって、彼についての知識はかなりあったような気がしますね。ただ、すでに私は太宰に深入りしてたんで、文学的経験としては三島にはそんなに傾倒してないですよ。

伏見 三島で初めに読んだのは「仮面の告白」だったんですか。

南 そうです。

伏見 だけどあんまり文学的には傾倒しなかった。

南 しなかった。かびやかずひこの文章を読んだのと同じ程度の受け止め方ですね。

 

『禁色』の世界

伏見 で、「禁色」は昭和26年に「群像」で第1話が掲載されて、それは「群像」で読んでたってことですか。

南 それは教師が持ってたんですよ。国語の先生が「こんな小説があるよ」って見せてくれたわけ。冷やかし半分で彼は見せてくれたんですよ。つまり彼は「禁色」を文学とは思わなかった。文学というのはもっと高尚なもんだというようなつもりでいたんでしょう。だけど、私はそれを読み出したら面白くなって、自分で買って読んだんですよ。

伏見 風俗小説みたいな印象?

南 そう、風俗小説。当時はまだ風俗小説っていうのは市民権を得てないからね。あの小説は同性愛の華麗な世界を描いてますよね。文豪を取り巻く社交界、アンダーグラウンドな同性愛者のサロン、あるいは当時のゲイバーの雰囲気がわかって、まさに憧れの世界でしたよ。

伏見 ほー、淫靡で恐ろしい世界っていうことではなくて?

南 全然そんなんじゃない。たとえるなら、「源氏物語」を華麗な世界というのと同じような受け止め方でしたね。

伏見 そのときにはもうはっきりと、自分のことを「同性愛者」という言葉でくくってました?

 そう、だからその国語の教師が、「こんなもの」って感じで差し出した雑誌をペラペラッめくっているうちに、あっ、これはまさに自分のことを書いてるなと。じゃあ今度は買って読もうと、そういう具合に思ったわけですね。

伏見 あ、でも、どうなんだろう。昔、クロノスのクロちゃん(南氏も伏見も通った二丁目の老舗ゲイバー。名物マスターのクロちゃんはすでに故人)が、「昔は『同性愛者』じゃなくて、『同性愛』って言ってたわよ」って言ってたんですけれども。

南 あ、そうかも。「同性愛」。「同性愛者」じゃない。「者」はない。

伏見 でも『禁色』を読んで、同性愛に関して否定的なものは一切受け取らなかった?

南 受け取らなかった。

伏見 僕が「禁色」ですごく優れていると思うところって、あの時代の同性愛者のホモフォービックな感情を、公園のハッテンのシーンとかで微に入り細を穿ち書いているあたりなんです。三島由紀夫の他の同性愛者に対する気持ちそのものだと思うんだけれども、彼らしく見事なまでの分析力を発揮しているだけに、同胞に対して容赦ない、辛辣な表現で綴っている。

南 僕はそれを肯定的に受け取って、あそこに書いてあるようなことを実現したかった。あの中で、主人公の悠ちゃんが都電(伏見注:下の画像は昭和45年頃の新宿の都電)に乗るシーンがあるんですよ。そこで同乗してきた同性愛の少年と出会うでしょう。ああそうか、都電にはそういう人が乗っているんだと期待して、上京したときに乗ってみた。そうしたら私にも同じようなことがあったですよ! 神保町から須田町へ行くまでの間、私が窓の外を見ていたら、隣に立ったやつがいたんですね。だんだんだんだん手がこう動いてきて、私の手に触れたのね。こっちはじっとしてるでしょう。そうしたら、その触った手が今度は指を絡めてきた。それで、あっ、この人は「そうなんだな」と思って、じーっと手をそのままにして、終点で降りたの。すぐそばに大きな喫茶店があったので、「お茶でも飲みませんか」って言ったら、向こうも応じた。それで、そこの喫茶店で話して、その人と関係を持ったのね。彼とはけっこう続きましたよ。その人は、私より1つぐらい年下かな。

伏見 それはいつくらいの話なんですか。

南 東京へ出てきてからだから、24歳ぐらいのとき。(伏見注:1955年、昭和30年)

伏見 ほおー、勇気がある。南さんは同性愛ということで悩んだっていうことはないわけですよね。

南 悩んだっていうことはないですよ。

伏見 うーん…珍しいですよね。その年代で悩まないって。自己分析をすると、どうして悩まなかったんだと思いますか(笑)。

南 いや、それはね、自然な姿だったんです。自分の自然な姿をとにかく満足させれば、それでいいんだと。だからね、悩みというのはないんだよ。生まれつきそうだと思ってたから。

伏見 でもそういうふうに割り切れた人って、昭和20,30年代にはほぼいなかった思うんですけど…。平成に入ってからだって似たようなもので。『仮面の告白』にしたって、延々悩んでる話じゃないですか。あれが典型的な同性愛者のパターンだと思うんですよね。いや、むしろ、『仮面』の主人公みたいに、あれだけ自分自身を見つめることができた人なんていなかったはずで。

南 小説を読んだときに、私はそれを悩みととらえなかったんですね。むしろ「こいついい思いをしてるな!」って(笑)。

伏見 あぁ……だから、ホモ・エンターテインメントに走ってる「禁色」の方に思い入れがあったのかな。じゃあ、南さんは東京に出てきて、他の同性愛の人に会うと、彼らの後ろめたい様子に共感できなかったわけですか。

南 そう、ゲイバー行ったときは、「なんでこんなに暗いの?」と思ったの。だって自分の好きなところへ来てるのに陰々滅々としてるんだから(笑)。

伏見 うーーーん、でも南さんは特殊なケースですよね。

南 ああそう? 私のゲイバー・デビューはイプセン(*3)です。でもイプセンはあんまり行かなかったんだ。店員のテルちゃんっていうのに惚れてフラれちゃったから。それでその他のゲイバー、アドニスっていうのを教えられた。アドニスにはしょっちゅう行ってたんです。そこは暗いお店だった。2階建てで、1階はカウンターで、真っ暗なんですよ。光が手元にぽーっと当たるだけ。2階はテーブル席で、レコードをかけて踊ったりするんですよ。ところが2階へ上がってくる客はほとんどいなかった。明るいから僕1人ぐらい。そうするとボーイが相手をして踊ってくれる人くれる。

(*3)上・画像 は昭和20〜30年代のイプセン。故・マスターと店内の様子©️伏見憲明

 

秋田検察庁から横浜へ

伏見 話を戻して、えーっと、高校生でそういう読書体験をして、同性愛者の集まっているところ、東京へ行こうと。かびやさんのルポの影響で上京の計画を立てたとおっしゃっていましたが、それはどういう計画だったんですか。

南 さっき、同僚に「踊りを踊ってるみたいだ」って揶揄された話しをしましたが、その職場は国家公務員の役所なんですね。だから異動ができて、課長に飲んだ席で転勤を頼んだんですよ。

伏見 高校を卒業して最初に勤めたのが役所ということですか。

南 秋田地方検察庁。だから国家公務員なんですよ。で、私は出張費の計算係だったので、課長が東京へ出張に行く日程がわかるわけね。それで、宴会のとき課長に、「東京へ行って夜間大学で勉強したいんだけれども、東京の検察庁に転勤できるよう全国の課長会議で口を効いてもらえないだろうか」と頼んだ。そうしたらその課長は立身出世主義の人で、「ああ、そうか。それは大いにけっこうだ。私の部下から大学を卒業して事務官になってまた戻ってきてくれれば、大変ありがたい」って、すごく熱心にかけあってくれたんです。それで数年後に、横浜に空きができて、横浜の会計課長から連絡があったんです。横浜と東京はそんなに遠くないというんで転勤をさせてもらったの。それが計画の第一ですよね。

伏見 高校を卒業してすぐに秋田検察庁に入れたわけですか。

南 いや、入れなかった。当時は就職難だから、1年ぐらい遊んでました。

伏見 当時、国家公務員試験ていうのはあったんですか。

南 事務官の下の、私のような働き手を雇(やとい)っていうんですよ。事務官の下働きをする人。事務官は正式の国家公務員だから試験がある。雇いの場合は、内部で試験というか口頭試問をやる程度。そういう意味で、国家試験はない。

伏見 じゃあ、1年ぐらい浪人して検察庁に入って、何年ぐらいそこにいたんですか。

南 そこに2年ぐらいいたんじゃないかな。

伏見 それから、横浜に転勤した。じゃあ。もう秋田にいた頃には自立してた。

南 そうそう。

伏見 その頃はお母様もちょっと楽になったんですか。

南 いや、まだまだ楽になってないですね。

伏見 あと、樺太に残ったお父さんは結局どうなったんですか。

南 実は、我々が引き揚げてから、3年後に帰ってきたんです。母親が引き揚げて妹のところに転がり込んだでしょう。でも転がり込んだわいいが、妹のうちだって自分の家族を養うのは精一杯だから、そこでやっぱり子ども同士がケンカをするわけ。何が一番ケンカの種になるかというと、食べ物なんですよ。別所帯だからお膳は別で、それぞれ食事を作って食べてるんだけど、向こうとうちとはちょっと食事の内容が違う。母の妹はあんまり料理に手をかけない人だったんだけど、うちの母親は粗末な食材でも手をかけて、おいしそうに作るわけ。そうすると向こうの子どもたちが「あれ食いたい」ってねだる(笑)。こっちはそこへ居候してるわけだから、彼らは当然だっていうような顔で料理をつまんで持っていくんだよね。そうすると、「それはうちのもんだ!」ってケンカが始まるんですよ、毎晩のように。

それがつらいっていうんで、母が別に間借りをしようと思ったんだけれども、女1人で子どもを養ってると部屋もなかなか借りられない。やっぱり男がいないとダメだ、働かなくてもいいからいなきゃダメだというんで、母が私に「父さん、待ってます」とハガキを書かせた。そうしたらそれがモスクワ経由で巡り巡って元の住所の父親のところに届いた。父親は秋田に来るつもりはなかったんだけど、ハガキを見たら本土へ行こうっていう気持ちになった。ちょうど父親の弟が写真館を経営していて、そこにソ連軍の将校連中が樺太へ進軍した記念写真を撮影に来る。そんなことで将校とつきあいがあって、叔父がある将校に話をつけた。「オーケー。すぐに帰らせてやる」と引き揚げの手続きを取ってくれて、とにかく帰ってきたんですよ。

伏見 モスクワ経由で届くぐらいだから、そのときは本土と南樺太は断絶というか、行き来はなかったわけですよね。じゃあ、たまたま運よく。

南 運よく。

伏見 なんか南さんて、どのネタを振っても大時代的な展開ですよねえ。

(つづく)

 

南定四郎 

1931年、南樺太生まれ。1974年にゲイ雑誌「アドン」を創刊。1984年「IGA日本」を設立以降、日本のゲイ解放運動において先駆的な役割を果たし、パレードや映画祭、HIV啓発運動などを実現。現在、沖縄在住。

近影・撮影/ 中野泰輔

昭和45年の新宿付近の路面電車(資料画像)

 

 

(*1)伏見憲明 著『ゲイという「経験」』の「ゲイの考古学」の章に、かびやかずひこに関する小論を収録しているので、それをここに紹介してみる。(伏見)

「私が最初に〝かびやかずひこ〟の名前を気に止めたのは、戦後のゲイバーの成り立ちを調べようと、雑誌『あまとりあ』の記事を探っていたときだ。昭和三十年六月号から三回にわたったかびやの連載「ゲイ・バアの生態」は、初期のゲイバーを知る上でとても貴重な資料だと言える。七十年代以前のゲイの状況はほとんど活字に残されていないことを考えると、彼がこうした文章を著しておいてくれたことは、後世のゲイたちが過去の歴史を遡るに際し、どれだけ手助けになるだろう。実際、私自身、年配のゲイたちのあいまいな記憶の話だけでは、初期のゲイバーについて書くことはままならなかった。

 もちろん当時のゲイたちにとっても、かびやが発信していた情報は相当に有益だったはずである。私が取材した人の中にも、 「たしか、『あまとりあ』だか『人間科学』だかで、東京にゲイバーというのがあるのを知って、上京した際に初めて行ってんたんですよ」(七十代) と語る人がいた。

 同性愛に関する情報がほとんどなかった時代のことである。かびやの記した記事は当時のゲイたちにとって、砂漠でオアシスを見つけたような発見であったはずだ。きっと、かびやの仕事によって、ネットワークにアクセスすることが叶い、孤独から救われた人たちも数多くいたと思う。

 昭和二十年代の後半から三十年代始めにかけては、(三島由紀夫の著作の影響もあったのだろうか)高橋鐡の主宰する雑誌や、他の風俗雑誌などで、ある程度、同性愛への関心が世間で高まっていた。その動きにおいてかびやの果たした役割は大きい。調べてみると、彼はそうした特集などに必ずと言っていいほど登場し、寄稿しているのである。

 一部の読者にはおわかりのことと思うが、私がかびやに特別な思いを抱くのは、それが今日のゲイをめぐる状況の中での私自身の仕事や役割に非常に似ているからなのである。(不遜な言い方をすれば)まるで、四十年前に自分が生きていたように感じられるのだ。  話を『あまとりあ』の記事に戻すと、その記事の最後にこんな文章が記されていた。 【附記 ホモ・セクシュアリテ(同性愛)について質問或は相談のある人は、左記へ照会下さい】

 そして驚いたことに、「左記」には「東京都中野区江古田二の九七八」という住所が、かびやの名前とともに記されていたのである。現在でさえ、ゲイシーンで自分の住所を明らかにするのはためらわれるところであるのに、昭和三十年(一九五五年)という時代に、危険を省みずに自分をそこまでさらけ出すとは、いったいかびやかずひこというのはどういう人物なのだろうか。そして、文章の内容から彼のことを勝手にゲイだと決め付けていたが、本当にそうであったのだろうか。彼はいったいどんなライターだったのか、年齢は?……とさまざまな疑問が頭をかすめるようになった。

 そうこうしているうちに、ふと思い出した。かびやというちょっと変わった名字には以前にも見覚えがあったのである。一九五七年に出版され、同性愛を扱った戦後の奇書として名高い『第三の性』(太田典礼編著)の著者の一人に〝鹿火屋一彦〟という名が記されていた。そしてそこにも先の住所と同様の番地が記されていたのである。

 プロフィールにはこうあった。 【一九〇二年生 幼より放浪の風あり、中学卒業後先学秋山尚男と共に性教育運動に携わる。元・雑誌記者、戦後文筆生活に入り『現代性教育読本』他著書多数】

 これで彼が性という問題に戦前からかかわってきたことははっきりした。そして生年月日から計算すると、現在、存命であったとしても百歳(二〇〇二年時)という年齢になるということも。

 とにかく、万が一にでも、本人に一度お目にかかれるのならば、といろいろ手を尽くして所在を探してみた。「あまとりあ」でかびやの記事に取り上げられたゲイバーの元経営者は、 「いやぁ、その人のことは覚えてないんだよね。きっとうちに来ていたんだと思うんだけど、直接取材ということで話したわけではなかったし」  また、ある事情通の年配者は、 「俺がこの世界に出入りし始めた頃は、ずいぶんならしていた人だけど、二丁目にはあまりこなかったみたいだよ。上野あたりでよく飲んでいたって聞いたことがあるけど…」  かつてかびやが度々寄稿していた『薔薇』を編集されていた高倉一さん(現「風俗資料館」館長)にも尋ねてみたが、 「わからないねぇ。個人的なことは聞かなかったからねぇ…」 ということだった。

 結局、所在はおろか、近年、かびや自身に直接会ったことがあるという人にすら、当たらなかった。

 仕方ないので、無駄足だとは思ったが、その四十三年前の雑誌に記してあった住所を訪ねてみることにした。

 とりあえず西武線の江古田の駅で降りて、その住所を地図で探してみたが、該当する番地が見つからない。警察で尋ねてみると、先の地名が現在では使われていないことがわかった。それで、「中野区江古田二」に該当するのが現在の江原町に当たることを教えてもらい、駅前からバスに乗ってそこまで行ってみた。

 けれどもバスを降りてみても、どこがかびやの住んでいた場所になるのか皆目検討がつかない。困っていると、なんと目の前に区の歴史資料館があることに気が付いた。何かわかることがあるかと思い、中に入り、スタッフの方に相談すると、幸いなことに、四十年前の住民台帳を見せてもらえることになった。そして、先の住所を探すと、なんと、「鹿火屋一彦」の名前の記載があるではないか! かびやという名前は驚いたことに本名だったのである。  それから当時の住所の場所を現在の地図に記してもらい、歩いて探すと、その住所には一軒の古びたアパートが立っていた。築数十年は立つであろうそれも、しかし、四十年前からあるとは思えなかった。住んでいる人にあたってわかったことは、かびやという人は住んでいないこと、アパートが三十年前に建て直されたものであることだけだった。

 再び、かびやの消息は霧の中に消えてしまった。ただ、その三十年前に立て替えられたアパートから以前の家屋を想像するに、中年を過ぎていた彼が、けっして裕福な生活を送っていたわけではないということは推測できた。 かびやかずひこが遺したもの  かびやかずひこが遺した同性愛に関する記事は膨大であるが、そのかびやにして、自らのセクシュアリティについて明確に語ることはなかった。どう読んでみても当事者以外が記しようもない内容を語っていても、そして自宅の住所まで公開して、同性愛者の悩み相談のボランティアまで引き受けていながらも、けっして「自分は同性愛者である」という言葉は記さなかった。しかし、それが周到に避けられ明言されてないことが、かえって、彼がゲイであることをあぶり出しているようにも感じる。

(略)

 筆者が手に入れた記録によると、かびやの執筆が確認できるのは、一九七六年(昭和五十一年)に『SMファン』に掲載された「のぞき魔の代償」が最後である。これ以降もどこかに書いていたのかもしれないし、あるいは何かの事情で断筆してしまったのかもしれない。しかし、その活動が一九七六年までだとしても、七十四歳までは現役のライターとして仕事していたことになるのだから、息の長い書き手であることは間違いない。経済的な問題もあっただろうが、何が彼をこんなに長きに渡って性の問題につなぎとめていたのか。興味は尽きない。

 この項を『バディ』誌(テラ出版)に発表してしばらくして、かつて、かびやの元に出入りしていたという方から連絡をいただいた。  横川正雄氏(仮名)は六十代半ば、現在はリタイアされて、独り暮らしをしている。心臓が少し悪いということだが、なかなか若々しく見え、若かりし日にはハンサムだったと一目でわかる男性だ。

「私がかびや先生のところに行っていたのは、昭和二十年代の後半だったでしょうかね。大学に入るべく状況した頃です。何かの雑誌で先生の主宰する会を知り、江古田のお宅にお邪魔しました。二軒長屋のいわゆる文化住宅で、六帖と四帖半の部屋に二帖くらいの台所とトイレがついてました。先生はそれは静かな方で、昔の書生さん、文士さんといった感じの方でした。この世界のことに真面目に取り組んでおられましたよ」  かびやが人格的に清廉で、真面目に同性愛の問題に関っていたというのは、まさに想像通りだった。 「けっこうな家柄の長男に生まれたそうですが、こういう世界に入ってしまったということで、家督は弟さんが嗣がれたとか。先生は結婚もされていて、奥さんは生活を支えるのにずいぶん苦労していたました。奥さんは私たちがお邪魔したときには、お茶を入れてくださり、ひっそりと傍らで、私たちの話を聞いておられました。あ、かびやかずひこの名前はたしかペンネームでしたよ」

 かびやが結婚していたという事実に、私は虚を突かれた思いだった。これほど同性愛の問題にこだわった彼が、一方では妻を持ち、生活の負担をかけていたというのは、どこか寂しい気持ちに私をさせた。しかし、それも時代の限界として仕方ないことなのだろう。 「先生の会は一カ月に一度くらいの割合で開かれていましたが、二年くらいで自然消滅してしまいました。若者が何人かで、先生のお部屋に集まって歓談したりしていましたね。そこで何を話していたのかは、もう覚えていないのですが」  横川氏はかびやのその後の消息についても知っていた。

「先生はもう二十数年前に胸の病気で亡くなられました。今は、先祖代々の三田のお墓で眠っておられます。私はあんなにお世話になったのに、入院されていることも知らず、亡くなった後、奥さんから御連絡をいただいた次第です。そのときに、先生が執筆されたものの処分を任されまして、焼却したり、人に差し上げたりしたんです。奥さんはまだご存命で、私とも時々手紙のやりとりをしています。病気がちではありますが、身内の方とひっそりと暮らされています」

 なるほど、かびやは七十年代の後半に世を去っていたのだ。それは最後の記した原稿の年代と合致する。やはり、亡くなる直前まで筆を捨てていなかったということだろう。それにしても、亡くなった後、原稿が焼却されるというのは、同じライターとして胸の詰まる思いがする。 「伏見さんの文章に先生のお名前を見つけて、つい、なつかしくなって連絡を入れたんですよ」

 こうして私の取材に応じてくれた横川氏は、かびやとの関わりの後、大学を卒業、就職をし、女性と結婚をして子供もきちんと育て上げた。が、つい最近、二十数年の結婚生活に終止符を打ち、離婚されたという。 「やはり、ホモだということが問題となって、妻に愛想を尽かされたんでしょうね。こんな歳になって、独り暮らしというのも何ですが、それなりには楽しんでは暮らしています」  しかし、横川氏の人生にはもう一人、パートナーとも言うべき存在がいた。それはまさに、かびやの元で出会った同年代の男性だった。出会った頃は、二人はまだ二十代だったが、その相手と今でも交遊を深めているというのだ。

「出会ったときは私が二十三、向こうが二十九でしたが、いまは私も六十六、向こうも七十二と、すっかりジジイになってしまいました(笑)」  その相手も地元で結婚して実家の事業を嗣いだので、以降は、横川氏とも年に数度しか逢わないが、二人は四十年以上に渡って定期的に逢い続け、今日に至っているという。肉体関係だって現在もあるというのだから、なんとも息の長い愛である。  それぞれのご家族の気持ちを考えると複雑だが、そうしたパートナーシップがずっと続いていることに、私はなんとも言えない感動を覚えた。今のように、ゲイとして自由を謳歌している人たちの愛が短命に終わることもあれば、結婚していても永続的な男同士の関係を実現した人たちもいる…。

 横山氏自身も、 「結局、彼のことが人生で一番大切なのではなかったか、と思うんです」 と語ってくれた。

 かびやかずひこが縁で出逢ったゲイのカップルが、四十年の時を経て、現在も愛を育み続けている。それこそが、奇跡としか言いようがない、戦後のゲイの物語であった。」(2002)