伏見憲明の書評

上野千鶴子『おひとりさまの最期』(朝日新聞出版社)

 

どこでどのように最期のときを過ごすのか。過ごすことができるのか。それは今日、切実な問題となってきている。本書『おひとりさまの最期』は、社会学者である上野千鶴子氏が自らさまざまな現場に赴き、高齢社会や「おひとりさまの最期」について考え抜いた一冊だ。

現在、高齢者世帯の4世帯に1世帯は単身者世帯で、「おひとりさま予備軍」でもある夫婦世帯と合わせると、子との同居世帯の数をはるかに超える。つまり、最期は誰でもおひとりさまになる可能性がある時代。ならば、施設で看取ってもらえばいーじゃん!と開き直ってみても、そちらも順番待ちで、入所要件が厳しい。病院や施設にも入れず、自宅にも安住できない「看取り難民」が今後、増加するという。

そうした展望のなか、国は死に場所を自宅に誘導する方針を立てていて(「ほぼ在宅、ときどき病院」)、上野氏の立場も「政府の医療・福祉改革の動機は、あげて医療・福祉コストの抑制にあります。が、不純な動機と高齢者の幸福がたまたま一致していたら、それでよし」とし、それを支持する。ただし政府が子供と老親の同居に期待するのに対して、上野氏の理想は、世帯分離を前提とした上での、在宅医療や在宅での看取りの実現にある。同居家族がいなくても、自宅で人生の幕引きができる社会を目指す。

「ナースコールを押して5分以内に駆けつけてくれるのが病院なら、15分待てばよいのが訪問看護」という表現には唸ったが、24時間対応の巡回訪問介護、24時間対応の訪問看護、24時間対応の訪問医療の3点セットがあれば「在宅ひとり死」は可能だという。そして、そうした方向での試みをしているひとたちについてのレポートが、本書の議論にリアリティを与えている。訪問医療で「在宅ホスピス」を実践する医師、空き家を(ときにそこに住んでいたお年寄りごと)借り上げて看取りの場とした「ホームホスピス」、在宅看取りのための主婦らの“看取り士”チーム、法人として「旅立ち」のプロセスをトータルに手伝うNPO…とユニークな実践の数々は、老後に不安を抱く読者に参照すべき情報と、希望を与えてくれる。

そして、さらに深い感動があるのは、著者が制度的な提案のほかに、自身の死生観を行間に込めているからだろう。

「本人に余命告知をためらったり、家族が余命告白を本人に隠しとおした時代って、なんて野蛮な時代だったのだろう、と思います。死を待つひとと、二度とないかけがいのない時間を過ごすためにこそ、余命告知はあるのですから」

「生きるとは迷惑をかけ合うこと。親子のあいだならとめどなく迷惑をかけてもかまわない、と共依存をする代わりに、ちょっとの迷惑を他人同士、じょうずにかけ合うしくみをつくりたいものです」

ところで、上野氏の思考は矛盾も抱えている。徹底して自己決定権を主張しながらも、一方で、「…生まれるときや生まれ方を選べなかったように、死にどきや死に方も選べない。それを選べると思うのは、人間業を超えた傲慢」だと吐露する。あるいは、終末期にはできるだけ医療が介入しないほうがいいとする反面、難病による尊厳死の問題となると、はぎれが悪い。医療の介入を否定せず、自死を簡単に自己決定に委ねようとはしない。どんな医療でもそれは死や病に対する介入であり、年齢も症状も相対的な条件の違いでしかないはずだが。さらに、全体を、家族という関係の抑圧性を強調する論調が貫いているが、じゃあ家族を再評価せず、それを動員せずに超高齢化社会を乗り切れるのか、という疑問も残る。

しかしこれらはすぐに答えの出ない問いであり、そこにある矛盾を矛盾のままに受け止めることもまた思考する者の誠実さであろう。著者にはかつて「文学を社会学する」と謳った著作があったが、この本はさながら「社会学を文学する」というべき奥行きと、死への静逸な響きを持っている。

(初出・現代性教育研究ジャーナル)