伏見憲明の書評

前川直哉 著『〈男性同性愛者〉の社会史』(作品社)

 

日本は元々、男色が盛んだったのに、明治以降、近代化とともに西洋の性欲学が輸入されると一転、通常の男女の性愛から逸脱する欲望は「変態」として病理化された。結果、同性同士の性愛は社会から「同性愛」として差別や偏見にさらされるようになり、当事者は負のアイデンティティを背負って生きていかざるをえなくなった。…という解釈が学術的に主流になったのは、1990年代以降。ざっくり言うと、(性的)アイデンティティは諸悪の根源であり、そうした近代の土俵に乗ってしまえば、差別構造を再生産することになる、という議論を喚起した。

90年代といえば、日本でも「ゲイ」や「レズビアン」など、負のアイデンティティを反転させて権利を主張するアイデンティティ・ポリティクスが叫ばれるようにもなった時期でもある。皮肉なことに、アイデンティティ肯定と、アイデンティティ否定の言説はほとんど同時に声を上げることとなった。ベクトルを反対にする両者の緊張関係は、時代を先取りしていた面もあったし、あるいは、状況を停滞させる方向に働いたのかもしれない(ちなみに、2010年代のLGBTムーブメントは、アイデンティティ・ポリティクスをやり直すところから始まる)。

そして今ここに、アイデンティティをめぐる議論に一石を投じる歴史観が登場した。前川直哉著『〈男性同性愛者〉の社会史』。著者の問題意識はこうだ。「大正時代の当事者男性たちは、自身の性のあり方を『変態』として周縁化する認識枠組みを、なぜ素直に受け入れたのだろうか。(略)当事者男性たちは、学者や権威が指示する分類に唯々諾々と従い、そこへ入り込んでいくだけの哀れな存在だった訳ではない。むしろ、史料からは、当事者男性たちが自ら「男性同性愛者」というアイデンティティを、主体的に選び取っていく姿が浮かび上がってくる」

つまり、彼が描こうとしているのは、権力による抑圧史ではなく、当事者の主体性をも織り込んだ、権力と欲望の歴史なのだ。

著者は、大正期の性欲学の文献、戦後の変態雑誌、70年代のゲイ雑誌などの投稿から、当事者の意思を丁寧に掬い上げていく。どの年代の当事者の悩みも大差なく、「周囲に打ち明けられない」悩み、「相手探し」の困難、結婚をめぐる苦悩が繰り返し表明されていた。そして、大正期の投稿にすら、「当事者男性たちが自己の特徴や経歴について語るプロセスは、『同性愛』を『病気』とする差別的な価値観に当事者男性が囚われる半面、同性への欲求を先天性を含む生物学的な問題として捉え、道義的な問題から自身を解放する側面も持っていた」と、その主体性を見出す。

また男性同性愛者たちの近代の歩みを、「憐れみの戦術」と「数の戦術」として捉え直しもする。生き残るためには病気も憐憫も利用し、さらに(特定の運動や個人の意図ではないにせよ)男性同性愛者が人口の中で一定比率を持つことを背景にして、自分たちの欲望を実現する社会的な範囲を拡大していった、と。

ここではもはや「アイデンティティは抑圧の装置である」という単純な悪玉論や、近代こそが抑圧だったという近代原因論は意味をなさない。「同性愛者」や「ホモ」といったアイデンティティは悪でも罠でもなく、社会の権力関係のなかで、当事者がより良く生きようとした「結果」にすぎない。

丹念に史料を掘り起こし、歴史への視角を転換して見せた著者の手腕は見事としてか言いようがないが、それを可能にしたのは、著者の人間に対する敬意かもしれない。安直に過去を理論に当てはめるのではなく、その時代を必死に生きた人々の実存への誠実な眼差しが、本書を貫いている。

(初出・現代性教育研究ジャーナル)