映画評『フィリップ、きみを愛してる』

主人公のスティーブン・ラッセルが求めてやまないものは、文字通りの愛なのか。

彼は幼少時代、実母に捨てられ、引き取られた先の家族からも疎まれて家を追われた。映画ではあまり描かれてはいないが、たぶん、養父母の家では彼の異様に高い知能が持て余されたのだろう。さらに、成人して実母に会いに行くも、残酷なまでに拒絶され、彼は過去のどこにも人生の根を見出すことができなかった。

成長の過程で、自分を承認してくれる人間関係、ありていに言うと愛が注がれる環境がないと、人は自分という存在の根拠を実感できないのかもしれない。だからこそ、それを補償するためにスティーブンは妻子と「普通」の家庭を営み、警察官としてまっとうな人生を歩もうとしていた。それはまるで絵に描いたようなアメリカン・ファミリー、模範的な男性像。しかし「普通」を体現すれば体現するほどに、彼のなかで「本当」は希薄になっていったのだろう。そしてそんな彼に転機が訪れた。交通事故に遭い生死の境を彷徨うことで、やっぱりこう思ったのだ。「自分の人生に嘘はつかない! 好きなことだけをやってやる! 本当の自分として生きるんだ!」

しかしスティーブンにとって「本当」とはいったい何だろう? たしかに彼が「本当の自分」として生きようとしたのは、とりあえず、「ゲイであること」だった。妻にカミングアウトして、ゲイとしての自分を正直に受け入れ、フロリダでセックスライフとお洒落なライフスタイルを楽しんだ。そこまでは映画や小説などで多く描かれてきたゲイのカミングアウト・ストーリーの定番とも言える。もちろん、そうした物語としてこの作品を解釈し、楽しむことだってできる。そう、愛に恵まれなかった主人公が自分を受け入れ、刑務所という最悪の環境で初めて愛する人と出会い、恋に落ち、彼との愛を貫くために犯罪を重ね、「愛している」の思いを伝えるために人生を賭ける……。

けれどもその手のラブストーリーとして読み込むには、この映画はアイロニーの仕掛けが込み入っている。キーは、ユアン・マクレガー演じるフィリップ・モリス。フィリップはそれほど頭がよくないブロンドの美青年。それを気の弱いオネエさんとして控えめに演じられることで、この物語自体の「本当」は見事に損なわれるのだ(そもそもあのオビ・ワン=ケノービーにオネエの役を当てがういやらしさ!)。一見、愛に飢えた中年男が美形の男に入れあげて……という理解に着地しそうな設定でもあるが、ユアンの白痴美的な演技によって、観客は主人公がこの男を愛し求める理由がわからなくなる。いったいこのブロンドは犯罪を犯してまで愛するほどの相手か?と。

ストレート(異性愛)の観客は、そこを「男同士の性愛なんてわからない」という辺りで納得するのかもしれない。が、筆者のような同じゲイからすると、それは理由にはならない。ゲイだって何だって、いっときのラブアフェアならともかく、美しいだけが取り柄の退屈な男にあそこまで執着したりしないものだ。

そこで見えてくるのは、フィリップを必要とするスティーブンの「本当」の内側だ。彼は、子供の頃に家族愛を実感できなかったことによって、「本当」の愛を感じる取ることができない。いや、生自体にリアルが欠落しているから、愛が理解できない。加えて、生まれ持った天才的なIQで思い描いたことを簡単に実現してしまうがゆえに、逆説的に、自分の関わることに「本当」を感じられない。

欲望がすぐに実現してしまうことは、魔法みたいな経験だろう。夢のなかで自由に空を飛ぶように、空想のなかで人を殺傷してみるように、あるいは賭け事で望みのままに勝利を獲得するように、自分の望むことが障害もなく可能になってしまうと、人はそこに「本当」、もといリアルを感じ取れなくなってしまう。魔法は「本当」の対語なのだ。

そればかりでなく、ゲイというセクシュアリティによって、スティーブンは自身のジェンダーにも確信が持てないはずだ。男としての自分もおよそ「本当」とは思えない。

そして、もはや同性愛が多様なセクシュアリティのひとつだとされる時代に生きる彼は、男同士ゆえにあまりにも容易に性愛が実現する流動性のなかに置かれた。そこでは、求めても求めても「本物の男」なんてどこにもおらず、それがただの幻想だということが実感される。「ゲイ」は「男」のパロディ、いや、「男」そのものが幻想なのかもしれない。しかし、「嘘」だとわかっているからこそ、いっそう切なく「本物」を追い求めてしまう……。

つまるところ、スティーブンが求めているのは、愛というよりも「本当」なのだ。愛しているからフィリップを追い求めたのではなく、愛していることを「本当」にしたいからフィリップに命がけになった。しかし、彼は「本当」を手に入れるために「嘘」を重ねていく。「嘘」を積上げていくことによってしか「本当」を確かめられないことの滑稽さ。それはまるで「本当の男」を実感するために「嘘の男」たちとの逢瀬を重ねるしかないゲイたちの姿そのものでもある。

映画『フィリップ、きみを愛してる!』はつまるところ、事後的にしか「家族のぬくもり」も、「愛」も、「男であること」も、そして「自分自身である」ことすら確かめられない私たちの生のアイロニーそのものだ。「本当」を獲得するためにフィクションを張り巡らさざるを得ないこの世界を、それは詐欺師のように嘲笑っている。

伏見憲明 (初出・キネマ旬報)