「性別二元制をめぐるパラドックス」

伏見憲明 著『欲望問題』(ポット出版)から

 

注5…… 上野千鶴子氏もインタビューの中でこのように発言しています。

《……「ジェンダーフリー教育」がとりあげたセクシュアル・マイノリティの人びとが、ジェンダー秩序、すなわち性別二元制から解放された自由な人びとだと、私はまったく思わないということです。ヘテロセクシズムも、ホモセクシュアリティも、トランスジェンダーも、性別二元制のさまざまな効果にすぎません。ジェンダー秩序がなければ、同性愛も存在しないし、トランスジェンダーも存在しない。だからこそ、ジェンダー秩序の解体が、共通の目標になりえます。それを日本語で「男女平等」と呼ぶことがどうしていけないのでしょうか。》(『バックラッシュ』2006)

 上野氏の言う通り、同性愛者もトランスジェンダーも性別二元制の中で生まれた欲望です。同様に、その構造の中で生み出されたセクシュアリティには、レズビアンや、女性の異性愛者も含まれます。つまり、フェミニズムが解放しようとしている女性も、その構造の中で、自らの欲望をもって差別構造を支えているわけです。氏は差別を解消するためには性別二元制を解体することが目標になると主張しますが、しかし、共通の目標とするかどうかは、それらの人びとが自分のセクシュアリティを否定し、それを解体することに同意しなければなりません。上野氏自身は、その矛盾をいかに考え、言説的実践以外どのような実践を行っているのか。そこまでを射程に入れて考えていなければ、この議論は論理的に不徹底です。

 上野氏は続けてこのように発言しています。

《性別二元制の核にあるのは、男が女と差異化することで、みずからを性的に主体化するというアイデンティティの形成です。ゲイやトランスジェンダーの人たちのなかにも、性的主体化をめぐるミソジニーがあるかどうか、をわたしは疑っています。よって、ゲイとフェミニズムが共闘できるかと問われれば、ミソジナスでないゲイとなら、と私は答えます。こういう発言をすると、ゲイの活動家から強烈なバッシングを受けることになるでしょうが、ミソジナスでないゲイという存在を、私は想像することができません。ミソジナスでないゲイとは、男性性を美化しないゲイということになりますが、お目にかかりたいものですね。》(同書)

 「男性性を美化しない」という表現には、いささか上野氏の世代的な感性を感じますが、それが「男尊女卑な思想に共感しない」という意味でなら、そういうゲイは少なからずいます(女性差別的なゲイがいないと言っているのではない)。しかし、もしそれが「男性のジェンダー・イメージに欲情しない」という意味なら、そんなゲイはいないでしょう。そして、同じことは異性愛の女性にも言えるはずです。異性愛の女性も、男性に欲情しているわけだから、それを「美化」しているのだと言われれば、彼女たちもミソジナスになります。しかし、だとしたら、上野氏のフェミニズムというのは、大半の女性さえもその救済対象に含まれないものなのでしょうか。さらに言えば、上野氏自身のセクシュアリティは性別二元制を超越しているのか。もっとも、「もうそっちはアガっちゃいましたから、関係ありません」と言われれば、それ以上は何も言えませんが(笑い)。

 さて、上野氏はこの発言の後で、こうも言っています。

《フェミニズムが登場したときから、「おまえたちは、男でも女でもない中性(モノセックス)のクローン人間型の社会をつくろうとしているのか」という批判がありました。しかし、現実のフェミニズムが進んでいったのは、差異の否認ではなく、差異の承認の方向でした。目指すものは、差異にセンシティブ(敏感)な社会の構築です。》(同書)

 「性別二元制の解体」と、この「差異にセンシティブな社会の構築」の間がどうつながっているのか、もっと詳細に論じられるべきかもしれません。ジェンダー秩序、すなわち性別二元制の解体とは、性差や、ジェンダー化を否定することではないのでしょうか。もしそうならば、性別という分割線自体もジェンダー化の効果であるわけで、それも抹消しなければならないことになります。あるいは、上野氏の性別二元制の解体構想は、性別という分割線は残す方向なのか。だとしたら、抹消すべきジェンダー(差異)と抹消しないそれとは、何をもって区別しているのか。差異の否認でないのなら、野口氏のようにその仕分けの原理を出していくことをしなければなりません。

 保守派の言う「中性化」は、性別を設定しないような社会、そこに男と女というカテゴリーが残っていないようなありようを思い浮かべているのでしょう。彼らも中性化=差異のない社会とは言っていないのではないか。

 上野氏は、男女の記号が残ったとしても性別が特権化されたり、性別を通じて人間を捉えるような認識がなくなったり、あるいは人のありようが性別に還元されることのない社会を「性別二元制が解体された社会」と言っているのでしょう。が、そこに男女という記号がまだ残っているとしたら、その状態になぜ差別がないと言えるのか。差別がないということ以外にそれを「幸福な状態」と考えうる根拠は何なのか。そして、差別をなくすために人々がすでに欲望しているセクシュアリティやジェンダーを放棄する、という前提は、いったいどこから出てくるのか。

 やはり、実践としてもよく見えてきません。そういう社会を実現するためには、生まれた子供に性別を与えない戦略も考えられます。あるいは、男女の違いを強調しないよう、実際に学校で男女の着替えを同室でしたり、トイレをいっしょにすることも、方向性として出てきても不思議ではありません。「ジェンダーフリー批判派」は事実をねじ曲げた上で、そういう「事件」をセンセーショナルに喧伝したようですが(事実誤認ならそれは反論されて当然です)、しかし、性別二元制解体を実現するには、それらのやり方は、理論から要請されてもいい。

 そして「差異にセンシティブ」ということと、例えば、一部の教育の現場で目標にもされた、男女の違いを強調しないこととは同じなのか、違うのか。君/さんで呼び分けないことは「差異にセンシティブ」なことなのか……どうにもピンとこないのです。

 ぼく自身は、性別二元制をベースにした上で、そこで「痛み」と感じられる事柄については「欲望問題」として個別に解消する試みをし、また二元制の枠に収まらない人びとに関しては、例外的な扱いがされるような新たな設定を加えていくことが肝要だと考えています。二元制に収まらない人たちがいるから二元制を解体するのではなく、他の多くの人たちがそれで上手くやっていることは前提として、そうでない人たちも生きやすいような工夫をしていくということです。

 そして、二元制を基本にしてそのように改革していった結果、未来、二元制自体が解体することもあるかもしれないし、そうでないかもしれない。たとえ、差別をなくすためにはそれを解体することが論理的に要請されたとしても、極端に言えば、人は差別をなくすことのみに生きているわけではないし、他の欲望のために、差別を生み出すところの差異を維持することだって、十分ありうるでしょう。性別二元制の解体は、多様な欲望を追求する人々にとって、合理的に選択しうるものではありません。

 二元制の解体は結果としてある可能性は否定しないが、それが目標ではないのです。ぼくにとっての「差異にセンシティブな社会の構築」とはそういうものです。上野氏のフェミニズムがその方向とは違うのか、もっと具体的に、実現可能な戦術として伺ってみたいです。

 やはり、この手の議論はそのあたりがわかりにくいし、論理的にも具体的にも実践がイメージしづらい。理論の外にいる人間には、言説と現実の間が言葉の抽象性の中でごまかされている感じが拭えないのです。「ジェンダーフリー批判派」とそれを薄く広く支える一般の人々の「誤解」は、日常感覚と、理論や活動の言葉がぶつかったところに生まれている、とも言えなくありません。その間のすっきりしなさが、本当のところ、いま問われているのではないでしょうか。