「QUEER JAPAN vol.2—変態するサラリーマン」序文(2000)

ツイッターで「職場とリーマンゲイ」についての議論を見かけて、あれ、こういうテーマで「クィア・ジャパン」を作ったことがあったなあ、と思い出した。改めて読み返してみたら、当時、自分がいい得たこと、掬えなかったこと、その後の時代の動き、人々の意識の変化…たった17年でこんなに物事は移りゆくのだなあと、不思議な気持ちになった。ここ数年でズズッと動いた状況と比較すると、見えてくるものもあるので、恥ずかしながら、ここに再録してみた。(伏見憲明)

あるゲイバーで僕が飲んでいると、年の頃は二十代後半のリーマン・ゲイが、急ぎ足で入ってきた。彼は水割りを注文し一気に飲み干すと、カウンター越しにマスターに愚痴をこぼし始めた。

「あー、もう嫌だ、会社員なんて! 今夜は職場の連中との飲み会でキャバクラに行ったんだけど、同僚の手前、好きでもないのに、無理してコンパニオンのねーちゃんの肩を抱いたりしなきゃなんないし、バレないようにという緊張で酒にも酔えないし…お金払って疲れただけ!」

「嫌だったらそんな破廉恥行為、あえてしなきゃいいじゃないの」 とマスター。

「だってぇ、ホモだとか疑われたらマズイじゃん。だから、つい、こちらから必要以上に男を装っちゃうんだよね」

「あんたみたいなベッタラオネェが大変ねぇ」

「そーなのよ! 本当に好きなのはいっしょに行った同じ部署の後輩なのに、なんでわざわざ女に関心あるふりをしなきゃならないんだか。でも、職場の人間関係の中では、どうしても『あたし』じゃなくて『俺よぉ』ってノリで男を演じてしまうんだよね」

「あんたのそんな姿見たら爆笑しちゃうわよ」

「ホントよねー。だって、あっしはこんなに根っからのホモでオネェなのに、なんでそんな男ぶらなきゃならないの!」

リーマン・ゲイ氏の話しぶりが面白くて僕の耳はダンボになっていたのだが、その憤懣にはなかなか感慨深いものがあった。 というのも、そのやるせない感情が、同性愛者としての自分ではなく、世間の方へと向かっていたからだ。 かつては、同性愛者自身が、自らのセクシュアリティを倫理的に許されないものと感じ、罪悪感を抱いていた。会社で同性愛者だと知られることなど絶対にあってはいけないし、ましてや自分からバラすようなことをしたら社会人として失格だ。そういう認識が当事者の間で共有されていたと思う。

ところが、先のリーマン.ゲイ氏の愚痴の中にあった「気分」というのは、「自分の方が間違っているのだから我慢しなければならない」という感覚からきているのではないような気がした。どちらかというと、「自分が同性愛者であることについてはそれなりに肯定しているが、それが公の場で明かになれば不利益を被ることが予想されるので、普段は隠している。でも、隠していることによって不愉快な目に合うのもたまらん」といった感じではないだろうか。自分自身の性向に苛立っているのではなく、その正直な表出が許されないことに嫌気がさしている。そういう彼がカミングアウトしない理由は、それが「すべきことでない」からではなく、ただ単にコスト/ベネフィットの観点から割に合わないからだろう。

そこが、自らのセクシュアリティのありようを倫理の問題として背負った旧世代と、新世代の決定的な感覚の違いなのである。憤懣やるかたない彼が、ゲイリブ的な政治意識を持っているようなタイプには見えなかったので、よけい、その「気分」が時代に流れる空気から導かれていたように思われた。

たぶん、かつてのゲイバーであれば、リーマン・ゲイ氏に対して「我慢するのが当然」という立場で接する人が多かったはずだ。「人に迷惑をかけるようなことは言ってはいけない」「甘えるな」と。

しかし九〇年代を経た現在は、こうした場合、周囲の視線は彼固有の社会的条件を憂うものへと変化しつつある、と言っていいだろう。生きがたい職場を選んでしまったことへの同情。「それはお気の毒さまで」

そしてもうひとつ、僕が彼の話に惹き付けられたのは、リーマン・ゲイの向こう側に、サラリーマン社会一般の摩訶不思議な実態ーー僕から観てのことだがーーが透けて見えたからであった。

会社勤めをした経験のない僕にとって、考えてみれば、会社という組織はほとんど未知の世界であり、そこに所属する会社員というのも謎の多い人種である。リーマン・ゲイ氏が語ったような、労働時間外でも「お付き合い」をしなければならない人間関係とは、どんな感情によってつながれているものなのだろうか。はたまた、同性愛者が自ら率先して異性愛者を演じざるをえない圧迫感というのは、どこから生じるのか。実は、そうしたセクシュアリティの開示が、職場で何かの機能を果たしているのではないか。

ところで、リーマン・ゲイ氏の話を僕らゲイの文脈で聞けば、そこにあるのは同性愛者 vs 異性愛者という図式でしかないが、異なる文脈で見れば、また違う図式だって成り立つ。同性愛者の空間とはまた別のクローゼットが存在してもおかしくないのだ。つまり、疑念を持って企業社会を眺めているのは、僕らだけではないはず。僕らゲイがマジョリティに大方知られていないように、他の人々も、実は僕らが「ただのサラリーマン」だと思い込んでいるだけで、まったく見知らぬ「他者」としてどこか別の共同性に属していることだって当然ありえる。現在の社会の不透明さを考えればなおさらだ。というように、僕にとってサラリーマンとか会社というのは、考えれば考えるほど興味が尽きない。  

もう少し、同性愛者の側から会社という空間について考えてみよう。

同性愛者はつねに心にひっかかりを抱いて社会生活を送っている。などと言うと、すぐに「そんなことはない。仕事をしているときはセクシュアリティのことなどまったく気に留めていない」という意見が返ってきそうだが、カミングアウトしていない同性愛者は、意識してるにせよしてないにせよ、周囲との会話がセクシュアリティにまつわる事柄に触れる度に、自分がクローゼットにとどまるか、あるいはアウトするかの選択を迫られている。

例えば、上司に「結婚するつもりはないのか」と問われるとき、あるいは同僚に「恋人はどんな人?」と聞かれるとき、それに正面から応えようとすれば、自らの性的指向の問題を避けては通れないだろう。しかし、こうした質問に晒されるとき、大方の(カミングアウトしていない)同性愛者は、その問いの本質に触れないような回答例を引きだしから取りだして出してくる。「もう少し自由でいたいので、まだ結婚するつもりはありません」「相手は性格のいい人だよ」。質問のポイントを少しずらしてみたり、迂回した表現をとりながら、会話を成り立たせることに腐心するのだ。

振り返ってみればわかるが、人が誰かと私的な会話をするとき、そこで性愛に関る話題が占める割合は思った以上に大きい。直接的なY談はもちろんのこと、結婚生活の話、好きなスターの話、テレビドラマや映画の話、小説の話、職場の男女関係の噂話、人生設計について……どれもどこかで意見を述べようとすれば、その人の性愛の指向に重なってくる。そして、職場でもこうした事柄が業務外、業務中を問わず、人々の口に上ることは少なくない(よほど人間関係が成立していない職場をのぞけば)。

とすれば、同性愛者がクローゼットにとどまろうとするかぎり、そうした話題が出る度に、自分の立場を異性愛者のコードに「変換」して表現することを余儀なくされるだろう。そして、そうした「変換」はふつう無意識裡に処理されているもので、いちいちその場で計算が働いたりはしない。なぜなら僕らは自分が同性愛者であることに気付いたときから、自然に(換言すれば、有無を言わさぬ強制力によって)、クローゼットに身を置くことを引き受けさせられ、異性愛のコードで自分を律することを課しててきたのである。そうした規制を所与のものとして日々を暮らしているのだから、その「変換」は日常のリアリティの中では苦痛でもないだろうし、めんどくさいものでもないはずだ。慣れというのは恐ろしい。

しかし、僕の個人的な経験に照らすと、クローゼットで暮らしているときには不自然には感じていなかった〝隠れホモ〟としての周囲への応対が、カミングアウトした後では、それがどれほど日々を覆っていて煩雑な行為であったかが痛感される。それまでの「自然なふるまい」が実はプレッシャーだったことに初めて気づき、愕然とすらした。言葉遣いのひとつ、視線の方向ひとつとっても細かに気を配っていたのである。

そうしたゲイであることを悟られないための所作は、内面化されたコードにそっていたわけで、そのことに無意識だったこと自体、社会の同性愛への禁忌の圧倒的な支配力を示している。

実際、職場という空間でも、多くの人たちが私的な会話ーー異性愛を前提とした内容ーーを頻繁に交わしている一方で、同性愛者が職場でカミングアウトすることへの反発は根強い。  

あるインターネットのお悩み相談のサイトで、職場でカミングアウトするかどうか迷っているという同性愛者の相談に対し、百人近い人々(「ふつう」のサラリーマンやOL)が回答を寄せていた。それはそういった問題に比較的寛容な若い世代、二十代三十代の回答者たちであったが、その半数までもがカミングアウトに否定的な意見を述べていた。その典型な主張が、「職場にプライバシーを持ち込まれても困る」「性は個人的な事柄であって、仕事とは関係ない」というものだ。

カミングアウトという行為が、職場の朝礼で時間をとってなされる「儀式」のたぐいとして実行されるものならともかく、である。会話の途中で「俺、男好きなんだよね」と軽く語ることなど、何かの折りに自分の性的指向(嗜好、志向)について口にすることがすでにカミングアウトなのだ。とすれば、同性愛者が自分らしい表現をすること自体が許されないということになる。職場で異性愛者が自分の嗜好を語ることはふつうのことなのに、同性愛者が同性愛者たる自分に触れることは、職場に適さない行為として排除されるわけだ。

もちろん、同性愛者と異性愛者の不公平はそうした私語の範囲だけの問題ではなく、会社に備えられた制度にだって存在する。具体的には、忌引や保険、会社の保養施設などの使用に関して、異性愛者への結婚制度による便宜はあっても、同性愛者のパートナーがそれと同様に扱われることは日本企業においてはほとんどない(企業の中ではいまもって、同性愛者が同性愛者として存在していないのだから、当然であるのだが)。

人の暮らしは社会(会社)生活とプライベートに分けられている、というのも一面的な見方であって、現実には社会制度あるいは会社制度の中に、私的領域に属するはずの関係性への保障も組み込まれている。そして、そのこと自体が、会社という組織を潤滑に運営するための機能を担っていたりするわけである。

西欧のゲイ・ムーブメントにおいては、そうした公的領域における不平等を解消するため、同性愛者にも異性愛者の婚姻制度と同様の制度を導入しようという動きがある。スウェーデン、ノルウェーなど北欧諸国が先進的にそうした道を歩んでいて、フランスも先頃、同性間のパートナーシップや事実婚の該当者を保障する法律の導入を決めたばかりである。

またアメリカやオーストラリアでは国家の法律はないが、個別の企業や自治体において、事実婚や同性間のパートナーシップに対する保障制度が実施されているケースがある。ドメスティック・パートナーシップ制度と呼ばれる制度だ。これはそれぞれの企業や自治体において保障内容が異なっていて、忌引、パートナーの看護休暇、健康保険の給付、保有施設の利用等々の権利が選択的に提供されている。ちなみに、こうした制度を取り入れている企業は年々増えており、現在では、IBM、アップル・コンピュータ、アメリカン・エクスプレス、ニューヨーク・タイムズ、ゼロックス、マイクロソフト、ワーナー・ブラザース…など名だたる企業が挙げられる。企業によっては人員採用の際のパンフレットに、同性愛者の問題に取り組んでいるセクションがあることが紹介されていたりもする。

また、積極的にゲイ・マーケットへの参入を企図する企業もある。ちなみに、僕は九八年にニューヨークで行われた「ゲイ・ビジネス・エキスポ」というイベントに行ったことがあるのだが、会場は数万人のゲイたちで埋め尽くされる盛況ぶりであった。これはゲイ消費者向けの一般企業の展示会、いってみれば晴海の見本市みたいなもので、シティバンク、アメリカン・エクスプレス、センチュリー21、アメリカン航空、AOLなど有名企業のブースが軒を連ねていた。可処分所得の高いゲイたちを優良な消費者として位置づけ、顧客に取り込もうとする企業戦略の一貫で、このイベントをスポンサードしたのはIBMだった。

そうした企業側のゲイ・マーケット戦略は資本の論理によって展開されているだけではなく、そこにはやはり、それぞれの企業で働くゲイやレズビアンの社員たちが、所属企業における職場環境の向上や、マイノリティ社員に対する経営側の認識改善を促すための政治的実践として関っているようだ。マイノリティへの配慮があることが企業イメージをアップさせる、という文脈へ、企業を組み入れる努力を内部から行っているのである。

僕はそのエキスポの会場で、同性愛者差別の問題に企業内で取り組んでいるあるレズビアンの活動家と出会った。彼女はある多国籍企業で働いていて、自分たちが要求することによって、会社がそのエキスポへブースを出展することを決めたのだと語った。彼女に尋ねてみた。

「もし、あなたの会社の日本の支社で、同性愛者が異性愛者に比べて平等を欠く労働条件で働いているとしたら、それを問題にする意志がありますか」

すると、彼女はこう応えた。 「それはまず、日本人の同性愛者の中から差別を問題にする声が上がらなければなりません。そうならないかぎり、こちらから支援の手を差し伸べることは無理でしょう」

日本に進出している外資系企業で、本社にドメスティック・パートナーシップ制度が実施されている企業があることはあまり知られていない。しかし、その適用を日本の組織内で申請するためには、当事者はカミングアウトの問題をクリアしなければならない。それはまだ相当困難な状況だ。制度が支社でも適用されることはありえても、それを運用するにあたっての障壁がなくならないかぎり、保障を求める人も出てこない。制度がもたらすベネフィットよりも、カミングアウトにともなうリスクの方が高くついてしまうからである。

欧米諸国のように、同性愛者の間で企業内での不公正を是正していこうとする動きが日本でも生じないともかぎらないが、現在、日本企業の中で起きている現象ーーサラリーマンたちの意識の変化は、それとは逆のベクトルを示しているとも言える。

それは、プライバシーも家庭も丸抱えだったこれまでの企業のあり方から、個人のプライベートな領域を切り離していく流れである。職場は生活の資を稼ぐ場所以外の何物でもなく、そこに高度成長を支えた企業戦士のように自己のアイデンティティを一体化させていく心性を拒否し、それぞれが企業とはまたべつの所属空間を持ちながら生活していくこと。いくつかの空間を行ったり来たりしながら、自分の人生の複数性を楽しみながら暮らしていく、そういった日常生活の希求だ。

ある意味で、これはゲイたちがすでに実践してきたことである。同性愛者はその社会的偏見や差別ゆえ、自らのセクシュアリティを隠し、私的領域を公的領域から隔離してきた。異性愛者の目の届かないそうした空間で、性愛のパートナーや同じ立場の友人と交流せざるをえなかった。しかしだからこそ逆説的に、僕らは企業社会に囚われない私的な空間を確保することが可能になったし、それを生活の中の喜びとすることもできたのだ。

成熟社会を生きる異性愛者の若い世代も、一部のエリートをのぞいて、方向としてはこうしたゲイ的な生き方に近づいていると言えるだろう。会社での姿は世を忍ぶ仮の姿、というのが彼らの本音なのではないか。そしてそういった意識は、インターネットの発展などによって今後さらに広がり、変化は加速していくだろう。

この特集「変態するサラリーマン」が映し出すものは、まず一義的には、企業社会の中で生きる同性愛者らの状況や意識だ。しかし、そればかりでなく、マイノリティの視点そのものから、会社やサラリーマン一般の姿も見えてくることになるだろう。さらには、現在、変容しつつある企業の状況もかいま見れるかもしれない。

変態(セクシュアル・マイノリティ)はサラリーマンの中にもいる。 社畜と呼ばれるような、サラリーマンという存在自体が変態だとも言える。

そして、サラリーマンたちはいま、二十一世紀に向けて確実にその姿を変態し始めている。

 

伏見憲明(『クィア・ジャパン vol.2 変態するサラリーン』序文、勁草書房、2000)