パヨクのための映画批評 23

欧米か! ~「セールスマン」(”The Salesman”、2016年、イラン)~

世界の人々の注目を集めて離さない中東。どの立場(同性愛者/異性愛者、男性/女性等)で、何を見るかによって完全に意見が割れる中東。その中でも比較的安定した社会を維持しているイランから来た映画、「セールスマン」を観て参りました。

高校の国語教師をしつつ、劇団員として妻と共に演劇をしているエマッド。急に引っ越すことになり移り住んだ新居で、妻ラナが何者かに襲われるという事件が発生する。警察に行こうとするエマッドを止めるラナ。他人に知られてしまうことを恐れつつ、たった一人傷を負ってしまったラナと、落ち込むラナにどう接したらいいか分からないエマッド。そこでエマッドは犯人を突き止める方法を思いつく。

なかなかに厳しそうな内容なのですが、本作には場面としてはきつい場面がほとんど出ませんが、イランの映画や演劇には検閲が入るのだそうです。それをまず念頭に置く必要があります。本作の中で劇団が演じる「セールスマンの死」というアメリカの劇について「検閲官が来る。3か所も直さないといけないらしい」というセリフがあったり、劇中「全裸」と言っている女性が赤いコートを着ているので、稽古中に他の役者が笑い出してしまう、というシーンが挟まっています。

本作では暴力を受けた女性をはっきり描きません。襲われた場所と状況を考えると、普通の日本人が想像するものはレイプだと思われますが、本作では「頭にけがをさせられた」という形になっています。これも、イランにおいては、この形以外では物語としても娯楽映画としても成立しえないのでしょう。

夫は夫で事件を解決したい、犯人を捕まえたい、と考え行動するのですが、妻の方は自己嫌悪と恐怖からほとんど前に進めない状態です。なぜ、うっかり、犯人を家に入れてしまったのか。これは「女性は守られている」というタテマエがある社会だからこそ、ラナは自分で自分を責めてしまう。そんな状況にある妻に対して、女性の側の気持ちに本当の意味で立ったことのない夫は、いら立ちと動揺を隠せません。かなりのインテリであるにもかかわらず、です。

これは現代日本の状況と奇妙に符合しているような気がします。画面の中で男女が触れ合うシーンが少ないのも、日本っぽい。

最後の方で明らかになる真犯人は意外と言えば意外、でも「女性が守られている」はずの社会関係から考えるとある意味「そうなるよね」と思えるキャラクターです。

イランはムスリムの国。全部のことは神様に委ねられており、人間世界はがっちり役割が決まっている。それは、国民の大半が「いちいち立ち止まって悩む必要がない」という大きな安らぎの中で生きているということ。そしてね、規範に厳格であるというタテマエを持つ社会には、「ちょっとは許される逸脱」というガス抜きがあるもの。ただしそれは絶対に他人にバレてはいけない。また、あらゆる規範が「ただのタテマエである」ということを暴くことも赦されないし、「逸脱」が人前で暴かれることは死を意味する。本作の中でも、真犯人がエマッドに「家族の前で恥をかかせないでくれ」と乞う。本作で起きたようなタテマエが想定していない「事故」は黙殺する他無く、騒ぎたてれば、「タテマエを脅かした」ということによってその人が裁かれてしまう。

他方で、私は、本作が欧米で評価された理由の一つは、「非西欧、特にイスラム圏において、非西欧的な価値観の中で女性が苦しみ、男性もまた苦しんでいる」という物語が欧米受けがよいからだと見ています。普通の映画としても非常に面白いですし、役者も上手いし映像もいいし、ラストの投げ出され感というのもよいのですが、この作品が欧米でウケたということ、監督さんが欧州でも映画を撮っていることを考えると、何とも言えなくなります。

大多数の精神的安定が達成されることが社会の理想なのであり、そのために少数が犠牲になることはやむを得ない、というのも一つの「正義」。でも誰だって自分が「犠牲者」になんかなりたくない。西欧社会は人権という概念を用いてそうした「社会のために犠牲になっていただく方達」の数を最小限にまで減らしてきたと言えます。それでもゼロにはならないのですが。

反対に、イランの社会は、「「犠牲になっていただく」人の割合が少し高めの社会の方が、「タテマエによって守られる「多数派」の安らぎは大きく深いものになる」ということを体現しているような気がするのです。

社会という生き物は、持続性を揺るがすような「異物」が入ったと感じると、大いなる安らぎの中で眠っていた個々の人々が、異物に対して白血球のように一斉攻撃を始めます。免疫力が高い社会、つまりは免疫で守られているものが外部と異質であればある程、それは激烈な反応として出てくるでしょう。でも、社会という生き物としては、健康な反応なのかもしれない。パヨクでゲイの私にとってこの考えは恐ろしいことですし、その暴力によって今なおたくさんの人が住処を追われたり、命を奪われたり、自由や健康を脅かされているという事実は無視できません。ただ、私達が、違う文化や社会を眺めるときに、どうしても避けては通れない領域の問題のような気もするのです。

例えどんなに個人の自由の実現が保障された社会であったとしても、ごく少数の人は、社会と法によって「自分の中から沸いてくる欲望」の実現を永久に遮断されており、その犠牲の上に私達の生活や平和や価値観が成立している…ということは、忘れてはいけないような気がするのです。

 

執筆者・竹美

ほぼカムアウト状態の会社員。九州のパヨクな家庭に育ち、パヨク思想に染まっていることに無自覚なまま二十歳を迎え、周囲の同級生が順当に就職活動を開始した頃、全然やる気になれず焦って大学院へ逃亡。それが、「企業=金儲け=巨悪」だと信仰していたためだと自覚したのはその10年後。「思想転向」のリハビリ過程で、「真っ先に悪を告発する紅衛兵」の素養を小学生位のときに発揮して同級生にウザがられていた記憶もフラッシュバック。

このコーナーでは、映画を通じて「私やあなたというパヨク」の滑稽で哀しく、正しくて誤っている物語を発見していきたい。