1960年代の二丁目がわかってきた!

三橋:そう、そこが大事な点です。仲通りと、花園通りの交差点の北西のブロック、今一番、ゲイ系のお店が集中しているエリアが、旧・新宿「赤線」(黙認買売春地区)なんです。

伏見:ルミエールのところですよね。

三橋:そうそう。ルミエールとか、九州男とか、ビックスビルの立っている場所も含めて、その東側(裏側)のエリア。あのあたりは昭和33年までは、完全に男と女のプロの世界だったわけで、そんなところにいきなりゲイ関係が入り込めるはずがないんです。だからまずその周りにポツポツとゲイバーができた。そこが、伏見さんの研究の先に、私が考えたところで。

伏見:まさにお伺いしたいところです。

三橋:基本的には、売春防止法で「赤線」が潰れて、そこにそれまで周りにあったゲイ系の店が入って来るのだけど、そこに10年くらいタイムラグがあるんですよ。

伏見:ほー。

三橋:ゲイタウンという格好がついてくるのは、伏見さんでいうと、70年代の初めでしょ?

伏見:いや、60年代だと思うんだけど。

(下画像・二丁目に現存する青線時代の遊郭の建物  ©️伏見憲明)

三橋:かなり入って来るのは60年代の末だと思うけど。その頃はまだあの「赤線」中核部にはあまり入ってきていない。

伏見:へえ、そうなんですか! それってどうやって調べたんですか。

三橋:いや、だから、まぁ色々(笑)。

伏見:「GREEN LETTER」ってミニコミがあったじゃないですか、全国ゲイバーマップみたいな。あれに1969年度版があるのは僕は知っているんだけど、それを見ても60年代末にはけっこうゲイの街になっている。

三橋:そうそう。だからゲイバーが進出して「ゲイタウン」になるまでに、10年近いタイムラグがあるんですよ。

伏見:なるほどね。いや、1960年代って、二丁目が「ゲイタウン」として成立していく過程のブラックボックスになっているので、誰かがそこを調べないかと期待していた。三橋さんがそういうご研究をされているのは本当に頼もしい。

三橋:今そこを調べて段々わかってきたんですけど、現在のルミエールや九州男があるエリアはかつて「赤線」だったわけだけど、その周りに非合法の売春地帯である「青線」があったんです。アデイの前の道をまっすぐ仲通の方へいくと、道が向こう側にもあるけども、その先はビルがあって御苑大通りに抜けてないじゃないですか。途中で鍵の手になっている。その道が元々の赤と青の境なの。

伏見:あぁ、アイソトープのところを行った突き当たり。(右画像)

三橋:アレより新宿通り側は「青線」なんですよ。まず青の方からゲイバーが入り始めるんです。

伏見:わ、そうなんですかあ。

三橋:そこでワンクッションあってから、本体の赤の方に入っていくの。なぜかっていうと、「赤線」業者は60年代のある時期までは、本気で「赤線」が復活すると思っていたふしがある。だから、建物を温存していたんです。具体的に言えば、1964年の東京オリンピックが終われば、「赤線」は復活するって思っていたから解体していないんですよ。ところが、オリンピックが終わってもいっこうに復活する様子がない。それでいよいよこの商売はもうダメだってなって、「赤線」の建物を解体して雑居ビルにし始める。そこにゲイバーがドッと入っていくというストーリー。

伏見:ゲイバーが進出していくのに二段階あった、と。

三橋:そうです。売春防止法からオリンピックまで建物を温存している間に新宿全体に大きな変化が起こった。盛り場の中心が完全に歌舞伎町に移っちゃったんです。60年代は歌舞伎町が大発展した時期で、戦前の新宿遊廓から戦後の「赤線」へと栄えていた二丁目エリアがは盛り場として廃れてしまった。だから、ビルに建て直したはいいけども、多分、高い家賃が取れなくて困っていた。だいたいどこでも街が寂れて家賃が下がると、そこにゲイバーができていく。ここでもその流れで説明できる。資料によってある程度裏づけられるんです。

伏見:ただ、その雑居ビルに入ったバーがゲイバーかどうかっていうのは、どういう資料で確認できるんですか?

三橋:そこはやっぱり、なかなか難しいんだけど。伏見さんと同じ資料、60年代末の「GREEN LETTER」とか、他にも風俗奇譚などの雑誌の広告とか。例えば、ぼんちっていう名前のゲイ系のバーは少なくとも1963年には南側の「青線」エリアに出店してる。そこのマスターも坪井さんという人は、当時の新宿のゲイ世界の有名人です。

伏見:それは、一つ一つパズルを埋めていくような大変な作業でしたね。僕もそういう流れが知りたかったんですが、50年代と、70年代以降はある程度資料があるんだけど、60年代は資料がほぼ見つからなかった。そのブラックボックスの期間については、直接、当時二丁目に来ていたゲイの高齢者の証言を集めることが必要で、でも、そこまでフィールドワークするには自分の時間とエネルギーがなかった。

三橋:鍵は60年代です。70年代には今の感覚に近いような、ゲイバーがたくさんある町になっている。ただそのプロセスがなかなかたどれない。あと、これも面白いことなんですけど、一般週刊誌って、ゲイタウンが成立すると、詳しいことを書かなくなっちゃうんです。取材に入りにくくなるから。ブラックボックス化しちゃって、「二丁目 たくさん」とか「推定100軒近く」で済ませちゃうんです。1950年代は、どこになんていう店があってと書いているから、何軒あるかカウントできるんだけど、1970年頃から店名が出てこなくなって、正確な軒数もわからなくなる。特殊エリアみたいな扱いになっちゃう。

伏見:60年代は勘定できます?

三橋:だから60年代は、カウントできる資料がないのです。

 

戦後のゲイバーの発祥地を突き止めた

伏見:僕が二丁目の歴史を調べ始めた際のことですが、まず一番古いバーを探すわけです。その当時(1992年)は、三鷹っていうバーが二丁目で一番古かったんですよ。そのバーにも聞きに行ったし、軒並み古いバーに自腹を切って取材に行った。そうするとね、店のマスターって案外、街のことを知らないんですよ。なぜかっていうと、ずっと店の中にいるから外のことをあまり見ていない。

三橋:お店の人って夜は遊びに行かないですもんね。

伏見:そうなんです。お客さんの方がむしろいろんな店を回るから知っている。僕もここ(アデイ)をやって初めて実感したんですけど。

三橋:だから古いお客さんに聞かないと分かんない。

伏見:そうなの。60年代に遊んでいた人たちって、もう80、90以上じゃないですか。だから、その世代の年配者がまだ飲みに出て来ていたら、その方々からの証言で歴史の穴を少しずつ埋めることができる。でももうほとんど・・・

三橋:私も女装のお店の聞き取りを、最初は年配の女装者に聞いていたんだけど、同じことに気づいて、遊び人のおじさまにインタビューして、それがとても役に立った。でもその方ももう亡くなってしまって・・・。心残りは、もっと早くにいろいろ聞いておけば良かったっていう。

伏見:そうなんですよね。僕の取材源の一人だったイプセンのマスターも、5年くらい前に、100歳で亡くなってしまった。

三橋:100まで生きていたんだ。凄いなぁ。

伏見:彼もそうだったんだけど、この手の取材の難しさは、じーさんたちはすぐには語らないんですよ。その世代だから当前なんだけど、ホモフォービックで自己肯定感がないから、自分のことも過去も話したがらない。口を割らせるために(笑)菓子折を持って通い詰めたりしました。僕がイプセンのマスターを訪ねた時はもう引退されていて、隠居しているマンションを調べるところから始まって、それは鹿火屋さんよりもっと大変でした。見つかっても、最初はけんもほろろでね、三顧の礼で少しずつ心の中に入り込んで、お話しを聞いていった。だから、情報を手に入れるのに、経費も時間も心理的なコストも膨大にかかっている! 「内外タイムス」も彼が教えてくれて、それまではそんな媒体があることさえ知らなかった。結局マスターとは、彼が老人ホームで亡くなるまで、20年くらいお付き合いをしたんですよ。

三橋:伏見さん、それはぜひ書いてくださいよ。

伏見:小説でちょっと書いているんですけどね(『百年の憂鬱』ポット出版)、ノンフィクションとしてはどうかなあ・・・。ブランスウィックや夜曲のマスターは、彼より10歳くらい上で、みんなお友達だったみたい。

三橋:ブランスウィックっていうのは1950年代に銀座にあった一流のゲイ喫茶です。

伏見:そう。まぁ、前身は戦中からあったらしいんですけど、名前が違っていた。そこに若き日の美輪さんも働いていたり、作家の野坂昭如なんかも(ゲイじゃないけど)働いていたり。三島由紀夫の『禁色』の舞台にもなった。

イプセンのマスターに昔のアルバムを見せてもらった際、彼がやなぎのお島さんと、青江のママと並んでいる写真があってね、今思えば、あれはゲイ的には国宝級だから盗んじゃえば良かった、と(笑)。イプセンの方が青江よりも先輩で、強面の青江のママも自分には腰が低かった、と振り返っていました。

三橋:やなぎっていうのは、東京におけるゲイ系のお店の元祖っていうことになっていて、そこで修業した人があちこちに散らばっていったわけです。先日気づいたのだけど、Wikipediaに「1946年開店」って書いてあるんですね。でも、1946年の新橋なんて、ほとんど焼け野原だから店なんか出来るはずがないんですよ。正確には「1951年開店」ですけど、新橋に烏森神社っていう古い神社があって、そこの境内が闇市バラックみたいな飲食店街になっていて、そこの一軒がやなぎ。私、やなぎの正確な場所を去年突き止めました。参道の両側二列に並んでいる店の中に「やなぎ」って店名をみつけた。そこから、戦後のお店系ゲイの歴史は始まるんです。

伏見:すごい追跡能力! あの当時ゲイバーっていったと思うんですけど、いわゆる二丁目的なホモ(ゲイ)バーと、女装バーっていうのが未分化で、やなぎも最初の頃はそんなに女装してないですよね。

三橋:してない。

伏見:けっこう文化人とかも来たりして繁盛して、それが女装専科になって行くんだよね。

三橋:だんだん日本髪女装になって行く。というか、最初はそれどころじゃなかった。だって、バーじゃないって話があるんです。お島さんが、なんで儲けたかっていうと、トンカツ屋で儲けたっていうんですよ。

伏見:僕は、やなぎは最初しるこ屋だったっていう話を聞いた記憶があるんだけど・・・。

三橋:つまり、食べ物屋なんです。酒処じゃないのですよ。そもそもお島さんっていうのは、銚子かどっかの方で・・・。

伏見:実家が漁師かなんかですよね。

三橋:そうそう、千葉の銚子の漁師の息子で、戦後すぐの食糧難の時代に、千葉で採れた魚を干物にして東京に担いで売って、資金を作ってあそこにお店を出したんですよ。そういう時代がスタートなんです。そこで修業した人が、青江のママっていうカルーセル麻紀さんのお師匠さんみたいな人。そのカルーセルさんが今はもう一番の長老見たいになっちゃった。

伏見:青江さんは?

三橋:青江さんは2011年に亡くなりました。脳梗塞かなんかで半身不随になって、お身内がいなくて、ファンの女性がずっと面倒を見て、老人ホームに入れて。最後は老衰で86歳だったそうです。

伏見:あと(美川憲一の仲良しで有名な)吉野さん。今もお元気のはず。

三橋:そうだ、最長齢は吉野さんですね、きっと。