「大塚ひかりの変態の日本史」その9

「宴席の戯れ歌」への疑問 『万葉集』

 今回は『万葉集』の話です。

 『万葉集』の注釈で私が昔から疑問だったのは、

「これは宴席の戯れ歌である」

というコメントです。

 たとえば、女流歌人の額田王と、大海人皇子の歌のやり取り、

「紫草の生える野を行き、立ち入り禁止の野を行って、番人が見ているのでは? あなたが袖を振るのを」(“あすねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る”)

「紫草のように美しいあなたが憎ければ、人妻と知りながら恋などするもんか」(“紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに あれ恋めやも”)

という有名な歌がありますよね。

 額田王は、もともと大海人の妻として子も生んでいたのが、のちに大海人の兄の天智天皇の妻になる。この二首の歌はつまり元ダン大海人とのやり取りで、いわば不倫の歌なんですが、池田弥三郎が言うには、宴席で羽目を外した大海人に、才女の額田王が戯れ歌を詠み掛けたんじゃないか、と。で、大海人も、「このときすでに四十歳になろうとしている額田王」に「『にほへる君』などとしっぺい返しをしたのである」と断じています(山本健吉・池田弥三郎『萬葉百歌』)

 いや~ひどい。

 この時、額田王の推定年齢は三十八、九歳。今なら女盛りですよ。

 鎌倉時代だって、愛人だった後深草院に「男でもいるのか?」と疑われた三十五歳(数え)の二条は、

「まだ四十にすらなっていませんのでこれから先は分かりませんが、お別れして以来そんなことはありません」

と答えていて、鎌倉時代くらいまでは、女は四十に満たなければ、まだまだ現役と考えられていた。

 額田王と大海人皇子の恋が再燃することは十二分にあり得ることなのに、江戸時代以来の「二十歳過ぎれば年増」的な感覚をひきずる池田弥三郎には、理解できない。

「四十女との恋なんてあり得ん!」ということになって「宴席の座興だ」ってなるんですね。

 最近ではさすがにこんなことを言う人もいなくなって、額田王をめぐる天智と大海人皇子(天武)の確執が壬申の乱の引き金になったとも言われるほどです。

 要するに「宴席の戯れ」説というのは、『万葉集』に展開する多様な性を、「理解できない」家父長的な性意識をもった学者が唱えたものだと私は考えています。

 しかし現代人から見ると、全然ありじゃん! と思えるのがこの手の「宴席の戯れ」レッテルを貼られた歌なんですよ。

 似た例として、『万葉集』の編者といわれる大伴家持の一連の歌があります。

「あなたが宝石ならいいのにな。手に巻いて見ながら行くのに。置いて行くのは残念だ」(“わが背子は 玉にもがもな 手に巻きて 見つつ行かむを 置きて行かば惜し”)

 この歌は、家持が赴任していた越中から帰京する際の送別会で詠まれたもの。

 相手ははたという現地の部下。

 つまりは男から男に送った歌です。

 家持の帰京時には連日のように送別会が開かれ、彼は大伴池主という同族の部下にも似たような歌を詠んでいる。

「あなたが宝石ならいいのにな。ほととぎすの声に混ぜて緒に通し、手に巻いて行こう」(“わが背子は 玉にもがもな ほととぎす 声にあへ貫き 手に巻きて行かむ”)

 そっくりです。

 複数の恋人に同じプレゼントするモテ男と、同じネタを使い回しする物書きのミックス形というか、よほどこの表現が気に入っていたんでしょうね。

 家持は大勢の女と恋歌の贈答もしており、男相手の恋歌は社交上の戯れというのが定説ですが、なぜそうと断言できるのか。

 家持は男も女もイケる口、「バイ」だったと考えたほうが自然ではないかと、私は昔から思っていました。

 とくに池主に対しては情熱的な長歌や相聞歌が残されていて、表現も、

「可愛い私の池主くんに、朝ごとに逢って語り合い、日が落ちれば手を取り合って」(“はしきよし わが背の君を 朝去らず 逢ひて言問ことどひ 夕されば 手携てたづさはりて”)

とか、明らかに秦くんに対する歌よりも熱い。

 池主くんの返歌も情熱的です。

「恋しい私の家持さまがナデシコの花だったらなぁ。毎朝見よう」(“うら恋し わが背の君は なでしこが 花にもがもな 朝な朝な見む”)

 ほかにも、池主くんと家持は恋歌を残していますが、古典文学全集の注には、

「池主は戯れて恋の歌に似せてこういったもの。池主はこのように軽い気持ちで家持と恋歌まがいの贈答をすることが多い」(日本古典文学全集『萬葉集』四 注)とある。

 なぜそう言えるのか。

 「恋歌まがい」ではなくて、「恋歌」ではないのか。

 それは、注をつけた人が、「理解できない」というだけのことではないのか。

 たとえ戯れ歌だとしても、戯れの中に本気が潜んでいることもあるんじゃないか?

 池主は、自分が越前に転勤した時も、当時、越中にいた家持に、

「今月十四日に、越中と越前の国境の深見村に至り、家持さまのいる北方をはるかに拝しました。常に御徳を思うことがいつの日になったらやむでしょう。ましてすぐ近くなので、たちまちにの気持ちがつのりました」

などという手紙と共に歌を三首送っています。

 院政期の大貴族と受領は男色で主従の絆を強めたことは五味文彦の研究で有名になりましたが(『院政期社会の研究』)、家持と池主くんの歌には利害関係を越えた相思相愛感が漂っています。

 池主くんは、七五七年、橘奈良麻呂の変に関わって処罰され、獄死したと言われます。

 家持は罪を免れたものの、翌年、因幡にとばされています。

 その後も、何度か政権絡みのクーデターに関わり、左遷されたり解任されたりしながら、七八五年に死んだあとも暗殺事件の首謀者であるという嫌疑を掛けられ、埋葬も許されず、官位も剥奪されてしまう(死後二十年以上経ってから復位)

末路は悲しいものの、二人の恋歌を見ると、生きているあいだには確かに心はずんだひとときもあったのだとホッとするのです。

 

大塚ひかり(おおつか ひかり)

 古典エッセイスト。1961年横浜市生まれ 早稲田大学第一文学部で日本史を専攻。『ブス論』、個人全訳『源氏物語』全六巻(以上ちくま文庫)、『本当はひどかった昔の日本』(新潮文庫)、『昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか』(草思社文庫)など著書多数。趣味は系図作り。

絵・エントランス