二丁目寺の坊主日記 30

「もうすぐ一年」

アデイの月曜担当、本多清寛です。

この日記も30回、二丁目寺のカウンターに入ってもう一年が経とうとしております。そこで、改めて自分がやっていることについて考えてみました。

最初は、単純にやってみたいと思って受けたこの二丁目寺。よく、ゲイバーやってるって家族には言ってないんでしょ?なんて質問を受けるんですが、妻には快諾してもらいましたし、お義父さんにも師匠にも褒められました。むしろ、一番悩んだのは「お酒を勧める」ことです。今さら感が漂いますが、お坊さんが酒という酔うものを勧めていいのか躊躇したんです。

お坊さんがお酒を飲むことに関しては、仏教の教え的に色々あります。けど、その教えをどう受け止めるかはその人次第なので、僕自身はその人の決断を見守ろうぜというスタンスです。

ただ、お酒を勧めることについては、酔うことを分かっていて勧めるわけですから、何か悪いことをしているような気がしてしまっていました。でも、僕は酔わせたいわけではなく、一緒に居心地よく過ごすために一杯勧めるだけなんです。それはお酒じゃなくても構いません。そう考えたとき、僕は酒を作っているんじゃなくて、居心地を作っているんだと思い、カウンターでお酒を作るのが苦でなくなりました。

そこに気付いたのは、日本で仏教式の葬儀が始まった時期について調べたからでした。生きている人間も怖いんですが、死体の恐怖は言葉にするのも難しいくらい大きく感じます。今でこそ、死体の処置が施されるようになりましたが、昔はそのまま放置されることがままあったようです。これは衛生面でも危険ではありますが、死体が放置されていることに対する怖れは、如何ほどだったのか分かりません。

それで、死者供養が何故行われたのかを考えていたら、ふと死体と一緒にいるために必要だったんじゃないかと思い付いたんです。赤の他人の死体には恐怖の感情が生まれます。けれど、供養された遺体であればそう成りにくい。死体と遺体の違いは、その人に対して手間暇がかけられたかどうかです。葬儀などの死者供養は手間暇です。誰かがやろうとしなければ絶対行われません。これって死んでても生きてても一緒だと思ったんです。

手間暇をかけてあげたくなる人とは付き合えるし、そうでない人とは付き合いにくいものですよね。死んで身体が止まっていても、生きて身体が動いていても、隣人として付き合えるようにしていくことが供養なんだと思っています。

二丁目寺でお出しする飲み物は、一杯の供養です。二丁目寺に来た方の居心地と、僕の居心地を良くするための一杯です。できれば、みなさんの心の中に抱えている方とも居心地良くありたいと思っています。もし、葬儀に出たくても出られなかった方がいらっしゃったら、二丁目寺でご供養させて欲しいです。その方のための一杯をご注文頂ければ、必ず僕が供養いたします。この一杯は、僕と一緒に半分ずつで飲んで下さいね。

一年間お付き合い頂き、ありがとうございました。これからも続けられますよう、どうか、どうかよろしくお願いいたします!

南無釈迦牟尼佛

 

本多清寛(しょうかん)和尚。(月曜担当)

1985年生まれ。熊本出身。お寺に生まれお寺に育つ。22歳の時、福井県の永平寺という山奥の修行寺で3年過ごす。修行仲間には相当な迷惑をかけ続けて山を下りる。その後、曹洞宗の研究センターにて仏教を学ぶ。同性婚の問題から、仏教と「性」について気になり、セクシュアリティについて勉強し始めた。生活に役立つ仏さまを模索している。趣味は「こんな時、お釈迦様ならなんて言う?」という大喜利。

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