南定四郎という巨人 6

「封印の記憶」

記憶とは編集された過去であり、そこに願望やら錯誤やら現在の思考やら…が混入した自己イメージでもある。だからライフヒストリーに関する語りを文字どおりに受け取るのは注意すべきだ。言い換えれば、ライフヒストリーは実はライフストーリーでもあり、その人の「ほんとう」はむしろ、本人の忘却や、語りえぬ行間に沈殿していることが少なくない。

南氏においても、インタビューを進めるにしたがって過去の自己描写はより暗く、あるいは憂鬱な記憶に書き換えられている。同性愛の受け止め方については、30代の回想に入ると、言っていることが当初と反対にさえなっている。そのどちらもが一面の真実であり、どちらもが十全に過去を語り尽くせていないのだろう。

「異常性欲者」だと同定していた青春期は、彼の中で唾棄すべき履歴であり、女性と結婚せざるを得なかった30代は抹消したいとさえ願う「黒歴史」のはずだ。今回のインタビューでわかったことだが、南氏の手元には個人的な写真がせいぜい80年代以降のものしかなく、(無意識に)過去を振り返ることを忌避しているような印象を持った。中でも(以下のインタビューに記されるが)元妻との結婚生活はその年次すら怪しい記憶となっているのである。たぶん、20,30代の日々は、回顧してみたときに、自分の人生だったという実感すら抱けないのかもしれない。

けれど、そうした「封印」こそが彼の「ほんとう」の陰画になっているように推察する。言葉にできない20代の懊悩や、30代での女性との陰惨な結婚生活が、50歳をすぎてからゲイ・アクティヴィストとして爆発するエネルギーを、心のマグマ溜まり深く、多量に供給させていたのだと想像しないではいられない。

きっと南氏のミソジニーにも、女性との結婚生活が関わっている。妻の側から見れば、彼が加害者であると言えるかもしれないが、彼にとって人生最悪のことどもも、元妻との関係だったのではないか。この問題は、後付けで誰が加害者で誰が被害者であったと図式化してもあまり発展的ではない。それによって彼のミソジニーが免罪されないにしても、肝要なのは、現在の視点から半世紀前の「経験」を断罪する誘惑に、私たち自身が禁欲的であることだろう。
(インタビュアー・伏見憲明)

「三島由紀夫」との距離

伏見 南さんは90年代に三島批判をさかんに「アドン」で書かれていましたが、三島由紀夫というのは、昭和20年代〜40年代において、同性愛者にとってはどういう存在だったわけですか。彼は「自伝的」と喧伝された出世作『仮面の告白』や、同性愛者の登場人物をフィーチャーした小説『禁色』で注目されたわけですが。

南 三島は歌舞伎の『近代能楽集』なんて作品でも非常にもてはやされていたし、新聞社の特派員としてアメリカやギリシャへ行って取材したりして活躍していました。文章に加えて、彼がポロシャツ姿で逞しい腕を出している写真が掲載されたりしたんで、だからまあ、憧れの人物だったですよね。

伏見 三島は自分を丸ごとメディアに露出させるような、今の文化人の走りだと言われていますよね。それから、僕は、自分の身体を性的記号として表現するという意味での、現代的なゲイの先駆けでもあったと思います。いまでいうところの“ジム釜”だもんね(笑)。アンダーグラウンドなゲイバー、コミュニティの中で、三島っていうのはどういうふうに語られていたんですか。“お仲間”だっていう感じでしょうか?

南 あ、全然語られない。

伏見 え、でもやっぱりほら『禁色』なんかを書いて…

南 いや、そうなんだけど。あるときね、上野のゲイバーへ行ったら、そこのゲイバーのマスターが、「あの場面は読んで、とても腹が立った」と言って、単行本を床に叩きつけたの。もう発行されてから何年も経ってるんですよ。ものすごい怒りを込めて私にしゃべってくれたことがあった。その年配のマスターにとっては、極端に言えば、同性愛者はふつうの男女とは違う、もっと崇高な、選ばれた人間だというようなプライドがあって、『禁色』は、まさにそれを傷つける小説だという評価をしてましたね。

伏見 確かに昔は“ゲイは選ばれし者”みたいな、倒錯した美学で男性同性愛を捉える傾向はありましたよね。被差別意識が裏返った選民意識。三島由紀夫がゲイだっていうことは、みんな知っていたんですか。

南 うん、バーにも来てたからね。(三丁目の)長春館の背中合わせにゲイバーがあったんですよ。地下へ下りていくゲイバーで、かなり広いお店でね、三島はそこへよく来てた。

伏見 それは三島が店の名前をつけたというラカーブですか。

南 そう、ラカーブ。それでね、三島が来るのは遅い時間帯だからすでに店内は満員になっていて、いつも階段に腰を下ろしてビールかなんか飲んで、あの特異な笑い声を立てて笑ったもんだよ、っていう話を、後年ラカーブのマスターに聞いたことがある。マスターは晩年、その場所を引き払って、第一天香ビルの向かいにある米屋の隣でお店をやってたんですね。そこはカウンターに三島の若い頃の全身写真が飾って置いてあるんですよ。それで、僕が「これ三島由紀夫じゃない?」って言ったら、「そうなのよ。私の恋人なの」なんて冗談を言ってましたよ。

伏見 南さん自身も三島はやっぱりゲイだというふうに思っていたんですか。同性愛だというふうに。

南 うん、そう。

伏見 『禁色』など作家として取材して想像で書いたということではなくて。

南 三島が、ゲイバーに取材に行ったと座談会かなんかでしゃべってるのを読んだことがありますけど、当時から「絶対に取材じゃない、遊びにいったんだろう」と思ってた(笑)。

伏見 以前、日本のゲイの歴史を調べていたときに、三島のお声掛りがあったことを自慢する高齢者の方に何人かあったのですが、50,60年代、ゲイがみんなが彼に憧れていたっていうことでもないんですね。

南 だってそのお店では、お客さんは無視していたって言うんですね。だから彼はわざと自己顕示をするみたいに大声で笑ったりする。ラカーブのマスターがそう言ってたもん。

 共産主義、社会運動、「ゲイの感性」

伏見 1950,60年代はまさに左翼の時代で、マルクス主義が全盛ですよね。南さんは組合活動にも関わっていたけれども、思想的に左寄りの傾向を持つに至る何かきっかけがあったのか、あるいは、むしろ普通のことだったのか。

南 それはやっぱり、引き揚げですよ。引き揚げてきて、貧乏な生活がずーっと続いていて、そんな下積みばっかりで生きてきたわけだから、左翼に走るのが自分を救う道だと思ったわけですよ。

伏見 時代の空気としてもそうだとは思うんですけれども、例えば具体的に、『資本論』を勉強するとか、『共産党宣言』を読むとか、読書体験としてあったんですか。

南 それはやってました。『共産党宣言』も読んだしね、資本論研究会なんていうのにも参加していた。なかなかこっちは討論するまではいかないけども、そこで人の話を聞いてました。

伏見 それはいつくらいですか。

南 「演劇界」の編集部にいた頃ですね。その頃、私は駒込に住んでいたんですけど、そこは単身者用の都営住宅で、3畳に台所と半間の押し入れがついているような4階建て。その集合住宅に300人くらいが居住していた。そこで、あるとき「住民総会を開くから参加してください」というチラシが入ってて、行ってみたらさ、この住宅は全員揃って町内会へ参加しますから、って決を取ろうとするわけ。僕はそれに猛反対した。だって、町会なんて入ったらとんでもないことになる、戦争に連れていかれるんだ、と思った。私の兄貴がいい例で、町会の人が来て、「行け、行け」って言うんで予科練に出願して、それで戦死しちゃった。町会というのは戦争の下請け機関になるんだから、絶対やめるべきだと言って反対したんです。そうしたらね、僕に賛同する人が10人いたんだ。それで、反対者の声がこれだけあるんだったら今日は決議は取りませんから流会にします、となった。それから、自分の部屋番号を記してガリ版の新聞を発行したんです。反対運動をやらなきゃダメだと、その300軒全部入れて歩いた。そうしたらさ、賛成する人が集まってきて、その中には既に労働組合の専従なんかをやってる人もいて、その人の部屋で、研究会を毎月開いたりするようになった。

伏見 マルクスの理論みたいなものを学ぶというのは、そのあたりですか。高校時代とかじゃなくて。

南 その頃。

伏見 じゃあちょうど60年安保の前。

南 そうですね。

伏見 南さんは書いたものの引用文献など見ると、いろんな本を読んでいらっしゃるけど、例えば丸山眞男(戦後民主主義を代表する政治学者)の著作なんていうのはいつぐらいに接しているんですか。

南 丸山眞男はね、ちょうどそのアパートにいた頃です。丸山の熱烈な信奉者がその独身者住宅の近所にいた。60年安保のデモの列にその人がいて、帰る方向が一緒だったから親しくなった。その人は一家を構えてたんですけれども、そこのうちに遊びにいっては丸山眞男の話を聞かされて、自分も岩波新書を買ってきて読んだりね。

伏見 60年安保のあたりでは、南さんにとって天皇っていうのはどういう位置付けなんですか。

南 そのアパートに入っていた時代はもう反天皇制だったけども、そこへ行くまではまだ反天皇制なんていう意識はないですね。

伏見 終戦まではもちろん天皇陛下万歳!感じですよね。

南 そりゃ万歳ですよ。

伏見 じゃあ終戦で秋田に引き揚げても、特に反天皇みたいな気持ちではなかった。

南 うん、ないですね。だから血のメーデー事件(1952)には本当にびっくりしてね。皇居前広場に学生のデモ隊とかが流れ込んできて暴動みたいになった事件。その新聞記事を読んだときには、「ええっ、こういう人たちもいるのか!」と思って驚いたくらいで。

伏見 じゃあそのときは「天皇にそんなことするなんて」みたいな。

南 そうそう、皇居へなだれ込むなんてありえない、と。

伏見 南さんが反天皇的になったのは共産党の影響? 60年安保のときには党派的にはどこに属していたんですか?

南 共産党には入っていない。

伏見 当時の思想的な色分けというか、立ち位置としてはどういう。

南 だから共産主義者。

伏見 共産党シンパ。

南 うーん、そうだね。党活動はしてないけれども、思想的に彼らに同調する、むしろ勉強するという感じでしょうかね。

伏見 えっと、他の左の党派ではなくて。

南 うん、社会党でなくて共産党。

伏見 社会党よりも左だったということですよね。で、社会党に対しては、どう思ってたんですか。ぬるいっていう感じですか。

南 ぬるいというかコウモリだと思ってた。あっち行ったりこっち行ったり当てにならないと。

伏見 社会党に対しては距離があって、共産党シンパとして雑誌社の中で組合活動をやっていた。

南 演劇出版社では組合活動はやってません。あそこは組合はなかったんです。東京建設従業員組合は6人くらい専従がいたんだけど、1人を除いて共産党員だった。だけどあそこは共産党の傘下ではないんだよね。組合自体は大工さんたちの組織だから保守的だった。

伏見 南さんは当時の平均値からすると、政治的な意識が高いほうだったって感じなんですか

南 そうですね。自分では政治的意識が高いと思ってました。

伏見 例えばその時代のゲイの中には、そういうタイプは少なかった?

南 いないねえ。

伏見 ゲイの中に左翼って少なかったのかなあ。

南 いない、いない。

伏見 ゲイバーとかではそういう話をしなかったというだけではなくて。

南 いや、もう心からそうですよ(笑)。心から非政治的なんだ。社会の矛盾だとかそんなことなんか一切話に出ないですよ。

伏見 でも南さんもそういう場所で政治の話なんてしなかったわけですよね。

南 しないですね。

伏見 じゃあ他の人ももしかしたらゲイの間ではしないかもしれないけれど、昼間の世界では組合運動やってるとかもあったのでは。

南 いや、そういう人はいない(笑)。少ないと思う。というのはね、彼らの態度とか話題とかが、なんていうかやっぱり退廃してる。セックスに退廃してるという感じで、社会に目を向けている印象はなかった。

伏見 朝日新聞記者だった相澤啓三さん(のちに詩人。音楽評論家。同性愛をあつかった作品も少なくない)が音楽雑誌に、“二丁目の退廃とフォークゲリラ”みたいな原稿を寄稿していたと南さんの著作にありましたが、それは全共闘の時代のことですけど、やっぱりかつてのゲイは退廃していた?

南 だから相澤さんの言ってる通りなんですよ。その記事を見たときには、雑誌によくこの記事が載ったなあと思った。

伏見 僕は80年代に青春を送った世代ですが、それでも“ゲイの退廃”というニュアンスは十分わかります。少なくともホモは性に局在化した存在でしかなかったからね。そういう自分を社会と切り離すことで適応していたとも言える。南さんは後年、「政治」と「感性」という対立軸で捉えるわけですが、その「感性」という項を90年代では否定的に使ってらっしゃいますよね。

南 なぜ「感性」というものを否定的に捉えてるかというと、当時ゲイバーで話しをしたりすると、「あんたはゲイの感性がないのよ」ってよく言われたんですね。それで、じゃあ他の人はゲイの「感性」があるのか、あるいはゲイの「感性」というのはそんなにいいものなのかって思って、ある意味、その「感性」に対して反発を抱いたのね。

伏見 80〜90年代の南さんは、美学的あるいは感覚的なゲットーに留まることで社会化、政治化しない他の同性愛者に苛立ちを覚えたんですね。

60年安保以後、南さんの共産党シンパ的な信条というのは、その後どうなるんですか。ずっとそういう考えなんですか。

南 そうです。ずっと変わらずです。

伏見 今日に至るまで変わらない感じですか。選挙なんかでも共産党に入れる立場ですか。

南 ええ、そうですね。