権田原の回想

伏見 男性同性愛者のアンダーグラウンドなネットワークでは、1952年にはミニコミ会員誌「アドニス」が、1964年には同「薔薇」が刊行されているんですが、それらは読んでいらっしゃったんですか。

南 そういうのは見なかった。あるということすら知らなかった。

伏見 あ、そうなんですか。けっこういろんなゲイシーンへ赴いていたのに面白いですね。逆に、それはいつ知るんですか。

南 もう雑誌の薔薇族」が創刊(1971)されてからですよ。僕は「薔薇族」を創刊2号目に本屋で発見したんですね。それから小説なんかを投稿した縁で、「薔薇族」の編集室に出入りしてる人と顔見知りになって、そのうちの「薔薇族」は「薔薇」を下地にしているって話しを耳にして、「え、『薔薇』ってなんだろう」って思い、自分で調べて「薔薇」や「アドニス」を知った。

伏見 あー、そうなんですか。ゲイバーで遊んでいた人でも、そんなミニコミがあるというのは知らなかったんですね。

南 読んでる人なんていなかった。読んでいたのはバーにくるのとはまた別のタイプの人たちじゃないですか。

伏見 きっとそれなりにインテリですよね、「アドニス」なんかは。南さんもご存知の、のちに京都の方の大学の学長を務める先生なんかは購読していて、大学の同僚と「アドニス」の文通欄で偶然出くわしたとおっしゃっていた。

南 あれは通信販売でしょう。前金でお金を払っておいて、それで送ってくるというシステムだから、そういう人たちは読むのが楽しみで、バーへは直接行ったりはしないわけよ。文通欄でお友達を見つけてるわけですから。

伏見 ちょっとバー系とは違う人たちが読んでいたのかもしれない。さっきの学長はバーにもいらしていたみたいだけど。南さんは「アドニス」を作られていた田中さん(作家・中井英夫のパートナーだった)のことも知らなかった? 晩年、バラードというバーをやっていた方。

南 知らなかった。中井英夫のバーがあることさえ知らなかったんですよ。

伏見 それはちょっと意外な感じが。田中さんって50年代から「アドニス」を編集していて、言ってみれば、1960年代までのゲイシーンを牽引していた大御所でしょう。

ハッテン場の話しは前も出ましたが、1960年代前半は権田原が盛んだったわけですよね。権田原っていまだに名前が挙がるくらいだから、相当なにぎわいだったんじゃないかと想像します。どんな感じだったんですかね。

南 人がわんさか集まって騒いでいるというより……木に寄りかかってると、いつの間にか隣に誰かがいるっていう感じですよね。それで腕が絡まって、黙ってれば草むらに引っぱり込まれて、あるいはどこかへ連れていかれてセックスをする、というパターン。

伏見 そこへ行けば誰かがいるっていうか、ハッテンしてるみたいな。

南 そうです。適当な光りもあるけど暗いから外からは見えなくて、自分たちだけ見えるから、地の利が非常にいい。それから神宮外苑で交通の便もいい。それで権田原は盛況だったんでしょうね。

伏見 当時、ハッテン場に行っている人とゲイバーに飲みにいく人はかぶってる感じですか、別っていう感じですか。

南 多少かぶってた。ハッテン場にいる人の30%ぐらいがゲイバーに来るんじゃないですか。70%はハッテン場オンリーで。

伏見 そこの分かれ目っていうのは経済格差ですか。ゲイバーの値段が高いからとかっていうこと? それとも顔を知られたくない人たちが多かった。

南 顔を知られたくないということでしょうね。それにゲイバーだとセックスに至るまで手続きがあるから時間がかかる。ハッテン場だとその日のうちにできる。

 

最初の肯定的な言葉はサルトル

伏見 さっき退廃っておっしゃっていたけれども、50,60年代くらいのゲイの人たちは、どんなふうに自分の(今で言うところの)セクシュアリティを考えていたんでしょうね。

南 それはまさしく「異常」ということだよ。異常性欲。自分は「異常性欲者」なんだと。だから、それを治そうと思ったもんね、僕だって。

伏見 え! それはいつですか。治そうと思ったのは。

南 20歳ぐらいのことですよ。できれば治そうと思った。

伏見 それはセックスを経験する前ですか、あとですか。

南 セックスを経験したあとでもそう思ってましたね。だって異常性欲だからね。いや、悩みますよ。ものすごく悩みますよ。治らないんだもんね(笑)。男とそういうことをしないように自分を律しても、またムラムラと欲望が生じてハッテン場やゲイバーに行く。年中それの繰り返しだものね。

伏見 周りの人もそんな感じなんですかね。

南 そうですよ。ゲイバー行ってる人たちもみんなそうですよ。異常性欲だと思って。

伏見 その頃、親とかノンケの友達とかに同性愛のことを言ってる人たちはいましたか。

南 いないよ。

伏見 もしバレたら社会的にどういうことになったんでしょう。

南 でも、何もならなかったでしょう。バレて退職を勧告されるというようなことは、おそらくなかったろうと思う。ただへんなやつだなあというようなことを公然と言われたり、「そんな遊びはやめろよ」みたいなことを言われるというのはあったでしょう。というのも、僕が「アドン」を始めた後ですが、同年代のノンケの友人に、青山通りでぱったり会って、道の向こうから「おーい、おまえオカマやってるのか」って叫ばれて(笑)、もう恥ずかしいのなんのって。「そんなものやめろよ!」なんて言われて。

伏見 「アドン」を始めた後の南さんでも、まだビクビクはしてたんですか。

南 もうビクビクですよ。うん、ものすごいビクビクしてた。

伏見 後々文章の中で、日本の終身雇用制度みたいな慣習がカミングアウトを困難にさせているのではないか、ということを指摘されていましたけれども、会社というのは同性愛者にとって居づらい場所ですよね。

南 日本の組織は共同体意識がものすごく根強いからね。そうすると共同体の雰囲気とそぐわない、違和感のある人っていうのは、はじき飛ばされてしまうんじゃないかっていう恐怖感を常に抱えざるを得ない。

伏見 例えば「演劇界」みたいなメディアでもそんな感じですか。

南 それはもうそうです。同性愛をネタにした噂話に花が咲くくらいですからね。

伏見 政治的な意識の高い労働組合なんかに勤めていても、やっぱりダメですか。

南 同じですよ。同じ同じ。

伏見 共産主義者にも同性愛を否定する空気はあった?

南 ありましたよ。最近ですよ、ようやく日本共産党が同性愛を許容するようになったのは。

伏見 でもずっと共産党のシンパで、そのことと同性愛であることの矛盾というのは。

南 それはね、矛盾と言うより、そもそも「違う」と思ってるから。

伏見 ジェンダーやクィア、ゲイ・スタディーズみたいな勉強をしている現在の学生なんかだと、もう全然その感覚がわからないと思うんです。その「違う」っていうのがどういう感じなのか。

南 「違う」というのはね、セックスという事柄は、政治とか社会的な行動にはそぐわないと思ってました。そういうものではないんだと。だから私が政治行動に関心を持ったり、あるいは行動的になった60年安保でも、セックスの問題からではなく、やっぱり共産主義とかの知識のほうから状況に関わっている。丸山眞男とか、当時はサルトルがものすごく流行ってた時代で、サルトルの全集なんか読んでましたからね。だから、人間として、自分が行動を起こすということ以外に自分を解放する道はないと政治参加していたけど、そういう問題と同性愛や性欲は全然違うもんだと思ってた。

伏見 実存主義とか『共産党宣言』とかとは、ホモとか同性愛とかセックスとかそういうのとは全然次元が違うという認識ですよね。同じ土俵で考える発想すらない。僕だって、もう80年代末だったけど、上野千鶴子さんが論文で同性愛について言及しているのを読んでビックリしたくらいで。

南 ただ、ジャン・ジュネというゲイの作家が出てきて、彼の小説『花のノートルダム』とかも読みました。そのあとサルトルがジャン・ジュネを「聖ジュネ」とか言って絶賛するんですね。それで「サルトルは同性愛を許容するんだな」と思って、それをものすごくうれしく思ったものですね。

伏見 そう、まず、自分たちの欲望を肯定する言葉がない。せいぜい美学的な問題に無理やりすり替えてやり過ごすことくらい。丸山(美輪)明宏なんかはどうでしたか?

南 いや、丸山明宏はそういうことを言わないですよ。

伏見 でも彼は昔から同性愛を公言してますよね。

南 「これは私の個性なんだ」という言い方だよね。それにもっとこう説明をつけて、一般の人にわかるような話しはしなかった。だから「あの人はね、そういう芸術家だから」というぐらいの理解ですよね。

伏見 じゃあ南さんにとって同性愛を肯定する言葉は、サルトル以外にはなかったんですか。

南 そうですね。ええ、サルトルの「ジュネ論」を読んだ、あのとき同性愛を肯定できる言葉が自分の中に少し芽生えた。

伏見 また話がちょっと戻りますが、そうすると例えば三島由紀夫の『仮面の告白』とか『禁色』っていうのは、自己肯定の言葉にはならなかったんですか。

南 あれは自己肯定でなくて、やっぱり日陰者がその美学を肯定したにすぎない。三島は身体的美しさを強調しますよね。それと自分たちは“選ばれたる者”というような意味合いの表現が随所に出てくる。そういう意味での肯定感はあるけれども、セクシュアリティに対するプライドというようなものにはならないわけです。

伏見 僕と南さんとは世代がずいぶん違って、僕にとっての三島由紀夫はもう名前を知ったときから大御所で、その死に様も伝説になっていたし、押しも押されぬ文豪って感じだけど、南さんにとってはそんなに偉い人ではなくって、同時代に出てきた作家にすぎない?

南 そうですよ。それに彼、子どもっぽかったですよね。写真なんかで若作りにして見せるというか、そういうんでそんなに……

伏見 サルトルみたいな権威ではない。

南 そう。本で読んだ知識ですが、矢代静一っていう三島と親交のあった文学座の劇作家がいて、最初に三島が新劇の世界に入ってきたときに、彼が側でいろいろ助言をしたりなんかしてるわけね。公演で「作ならびに演出・三島由紀夫」と名前が看板に出るわけだけど、稽古のときには矢代に「脚本なんてあなたが読んじゃダメなんだ」「あの人たちの動きを見なさい」と彼のほうが教え込まれていた。そういうのを既に知識として読んでたから、大御所というよりも、まだ新人作家という印象だからね。

伏見 あー、では三島の言葉はそんなに権威的なものとしては降りてこないわけですね。今、現在の時点で、『仮面の告白』を読むと、深読みしたい当時の評論とは真逆で、欲望肯定への素直な青春小説に読めるんだけど(笑)、それは南さんにとってはセクシュアリティの肯定にもつながらなかったんだ。

ところで、若い時代、ゲイ的な映画とか演劇っていうのはご覧になられましたか?

南 実はね、ゲイの演劇、ゲイの映画というのは、私は実は見てないんですよ。ヴィスコンティだとかああいうのも全然見てないの。『ベニスに死す』を初めて観たのも、もう自分でゲイマガジンを始めてる頃だから。

伏見 時代が全然違うからあれなんだけど、僕なんかだと、同性愛に関する情報がなかったから、そういうのを貪るように探して、映画とか本とかもずいぶん当たりました。例えばフロイトを読むとか、そういうことはなかったんですか。

南 全然なかった。

伏見 えー、そうなんですか! イプセンのマスターだって、戦前、呉に住んでいた思春期にハブロック・エリスを読んでいたっていうのに(笑)。

南 60年代には同性愛を主題にした演劇があったらしいんですよ。今の伊勢丹の向かいの映画館は映画が終わると、演劇をやらせてて、けっこう同性愛の作品もやっていたらしい。あるいは地下劇場のさそり座なんてところでも。堂本正樹っていう演劇評論家から後年話を聞いて、「え、そういう時代があったのか。観にいけばよかったな」と思ったぐらいですからね。僕は60年代はあまりゲイシーンは出ていかなかったからね。せいぜい映画館でのハッテンくらい。禁欲的な生活をしてたんですよ。

伏見 えーー!そうなんですか。じゃあ60年代はあんまり遊んでない?

南 うん、遊んでない。

 

封印の記憶

伏見 その時代、禁欲的だったのは女性とのご結婚と関係してるのかなあ。

南 もちろん。

伏見 南さんは1963年、昭和38年(伏見が生まれた年ですが)に女性と結婚されて、翌年にお子さんが生まれている。ここは、話しづらいところかもしれないんですけど、なんで結婚されたのでしょうか。

南 それはね、あれですよ。何かの機会に郷里に帰ったんですよ。そうしたら母親がね、「お前と同じ年ぐらいの子はみんな結婚して子どもいるわけだから、私が生きてる間に、孫をこの腕に抱かせてくれ」って。それで、あぁ孫くらい抱かせてあげない…と思った。そんなときに、資本論の研究会に参加してた未婚の女性と知り合った。それでもう結婚しようと思った。つまり誰でもいいと思ったの(笑)。

伏見 ひどい!(笑)

南 それでも一応ラブレターみたいなものも出したんですよ。向こうもすでにとうがたっていたので、結婚話しに乗ってきたんでしょうね。

伏見 お相手の方はおいくつだったんですか。年上、年下?

南 年下ですが、そんなに下ではなかったと思う。

伏見 南さん、このへんの事情はほんと雑に記憶しているみたいで、「40ぐらいで結婚した」とかどっか書いてあったんですけど。

南 そうそう、43って書いてない?

伏見 でも計算すると結婚時は31歳ぐらいですよね。

南 ああ、そう !? じゃあそうかもわかんない。自分で勘違いしてるんだ、40になってから結婚したんだと。

伏見 あははははは(笑)。すごい勘違い。

南 たしかに考えてみれば、30ぐらいだよね。そうでなきゃ同世代の連中がどんどん結婚してるってはずないもんねえ!

伏見 記憶を削除している! それにしても、当時の結婚圧力は想像を絶するものだったと想像します。

南 ものすごいあった。結婚圧力はものすごいの。

伏見 南さんですらその圧力に抗しきれなかった。適齢期になって、お母さん以外にも「結婚しなさい」みたいなことを言われたわけですか。

南 それは母親だけですよ。父親はそんなことは言わなかったけどね。

伏見 社会や共同体ぐるみの圧力だから、むしろ圧力だとも意識しないですよね。あまりにも当たり前で、大前提。だからこそすごいプレッシャー。僕なんかだと、好きでもない女性と暮らしたりとかできるだろうかとか、そもそも女の人とセックスできるだろうかみたいな怯えが、ゲイとして自己肯定するまではあった。南さんはなかったんですか。

南 それはありましたよー。向こうの父親に「結婚させてくれ」ということを言わなきゃいけないから彼女の実家に挨拶にいったんですよ。彼女は栄養士として病院に勤めていて、その日はうちへ帰ってこないというから、市の中心地にある病院まで行って会った。そうしたらもう時間も遅くなってしまい、病室のベッドが空いているからっていうんで、そこで泊まることになったんです。で、一緒に並んで寝るんだけれども、ついぞ朝までベッドインすることはできなかったね。自分はセックスできないんじゃないかっていう怯えがあった。相手のベッドに入っていってできなかったら、もう大変なことになるなと思ってさ。それでなんかもう目だけ冴えて、朝まで眠れず、夜が白々と明けて「ああ、これで帰れるんだ」とホッとした。

伏見 なんだか痛ましい記憶ですね。やっぱりそれでも結婚しなければいけないと追い詰められていたってことですよね。映画『ブロークバック・マウンテン』じゃないが、嘘をついて結婚せざるを得ないゲイも悲劇だが、妻側の視点に立てばまた別の不幸と差別がある。昔の同性愛者はみんなそこで激しく苦悩した。亡くなったゲイバーのマスターがおっしゃっていたんですが、彼はまだ小説家として売れる以前から三島由紀夫と友達で、三島も、とにかく、女性と結婚することを恐れ、嫌がっていたと。後に三島は結婚するわけですが、若いときには他の同性愛者と同様、そのことに深く苦悩していたというんですね。こういうのは現在のLGBT世代には想像もつかないことだと思うんですが、「同性愛者として生きる」なんてことは不可能に近かった。ていうか、その選択肢自体がなかった。

ところで、南さんは、結婚式はなさったんですか。

南 やったんですよ。いわゆる会費制度の結婚式。組合にいたから、組合の幹部に話をしたら、「じゃあ会費制度でやったらいいじゃないか」って言うんでね、5000円だったと思うけどみんなが出し合って、50人ぐらい集まった。場所は公民館の大きな会議室を借りて、そこで一応披露宴だけ。みんなで飲んで歌って午後いっぱいを過ごした。

伏見 翌年、39年に第一子が生まれて、お子さんは2人いらっしゃるんですよね。

南 そう。あと2年後に下が生まれた。2つ違いだから。

伏見 それで第一子が長女で、次が男のお子さんですよね。で、結婚生活はどれくらい続いたんですか。

南 10年も続いてませんね。「アドニスボーイ」を1972年に始める前には家を出てるわけだから、実際、一緒に生活をしてたのは3年か4年ぐらいなのかもしれない。

伏見 では、下のお子さんが生まれて2歳ぐらいのときには、もう別居ということですか。1969年くらいになりますね。で、正式に離婚が決まったのは。

南 下の子が大学を卒業したときですから。

伏見 そうか、二十数年間は法律的に婚姻関係だったんですね。奥さんが南さんがゲイだって知ったのはいつなんですか。

南 いや、今でも知ってるかどうかわからないです。言ったことないし。

伏見 お子さんは知っているとのことですから、そちらから伝わっているとも限らないし…。結婚生活を送っていたときは、やはり良心の呵責というか、相手を「だましている」みたいな負い目はありましたか。

南 もちろんありますよ! だから結婚生活は本当に針のむしろに座ってるようでした。気づかれないように、朝起きてから夜寝るまで別の自分を演じていた。

伏見 南さんのゲイシーンにおける空白の期間というのは、その結婚時代に重なるわけですよね。

南 重なりますね。

伏見 二丁目には結婚したから出なくなったんだ。

南 いやいや、二丁目は、「薔薇族」で知り合った伊藤文学さんが「連れていくから行かないか?」って誘われたのが初めて。

伏見 あ、そうか。二丁目がゲイタウンとして形成されたのは(南さんにとって空白の)60年代を通じてのことだから、南さんの二丁目体験は70年代に入ってからになるんですね。要町のイプセンとか歌舞伎町のアドニスには以前通っていたけど、それは二丁目ではないから。じゃあその間は主に映画館とかでハッテンされていたんですか。

南 たまにね。

伏見 男の恋人を求めるわけでもなく。

南 そう。

伏見 公園のハッテン場も?

南 いや、そういうところへは行ってません、全然。実に禁欲的だったんですよ。

伏見 へえー。映画館はどこに行かれたんですか。渋谷?

南 いや、渋谷じゃなくて池袋の日勝地下ってとこ。

伏見 そういうところへたまに行って、ちょっと遊ぶ程度で我慢してたということなんですか。

 そう。

伏見 ということは、結婚生活とホモ生活が分離してたっていうよりは、ホモのほうはもう開店休業みたいな。

南 開店休業。ただ、開店休業になるのもおそらく「演劇界」に入ったときですよ。ニッポン放送にいたときにはしょっちゅうゲイバーに行ってたわけだけど、「演劇界」ではバレないように必死で、自分で禁欲するようになったのかも。

伏見 職場の同性愛への差別的な会話がトラウマになったんですね。南さんにとっても同性愛への差別は冗談にはならないほどの抑圧だった。

南 それは大きかったですよ。せっかくいい仕事を見つけたんだから、これから外れたらダメだと思った。

(つづく)

 

南定四郎 

1931年、南樺太生まれ。1980~90年代にかけて日本の同性愛者の運動を主導した。

1974年にゲイ雑誌「アドン」を創刊。

1984年「IGA日本」を設立以降、日本のゲイ解放運動において先駆的な役割を果たし、パレードや映画祭、HIV啓発運動などを実現。現在、沖縄在住。