小説家の藤野千夜さんがゲイの恋愛模様を描いた『夏の約束』で芥川賞を受賞したのは、2000年。以来、現在まで長きにわたり小説を書き続け、時に胸の奥を突くほど切なく、時にニンマリ笑うほどコミカルに、われわれを楽しませている。

 

そんな多彩な藤野さんの作品だが、2015年に発表した『D菩薩峠漫研夏合宿』(新潮社)から、これまでと趣きが異なる流れが誕生した。この作品は、タイトルが示す通り、藤野さんが十代を過ごした「漫研」を舞台とする自伝的作品だ。また、最新刊の『編集ども集まれ!』(双葉社)は、出版社に勤務し、あることを機に解雇され、のちに小説家として芥川賞を受賞するまでを描く、同じく自らの体験を軸とする小説である。

 

過去を巡る旅のように自身を振り返り、これらの小説を紡ぐことを試みた藤野さん。『編集ども集まれ!』の中で巻き起こった出来事に沿いつつ、漫画編集者のこと、神保町の街のこと、そして自身のセクシュアリティについて、お話をうかがった。

 

漫画編集者だった頃

 

『編集ども集まれ!』の主人公・笹子が漫画雑誌の編集部で働き始めたのは、1985年だ。当時の出版社にはまだパソコンはなく、デスクには電話だけ、ファックスもまだ普及する前である。笹子に投影される藤野さんの姿も、昭和の時代の漫画編集部にあった。

 

「いろいろな仕事がありますが、漫画家の仕事場まで原稿を取りにいくのは絶対。編集部では、原稿の吹き出しに合わせ写植を貼ったり、漢字のへんとつくりを切り貼りして、写植にない字を作字したり……」

 

編集者が交代で漫画家に張り付き、原稿が仕上がるのを待つ。われわれが思い浮かべるハードな光景も、楽しい記憶として残っているという。また、『リバーズエッジ』の岡崎京子や、『じみへん』の中崎タツヤなど、そうそうたる有名漫画家との交流は、その強烈な個性もあいまって、読んでいてとても愉快だ。

 

「座布団を踏んだら怒られたとか、当時の漫画家の変わったエピソードはいっぱいありますよ。中崎タツヤさんからは、こちらがどんなに漫画が面白いとお伝えしても、『編集者の言うことは信じません!』と言われていました」

 

この作品は、過去の物語と交互して、現在の視点の話が進行する。笹子は「聖地巡礼」と称して、トキワ荘や手塚プロの地を訪れる。この笹子の絶えない漫画愛が、小説の時間をつなぐ役割をすることになる。

 

『編集ども集まれ!』藤野千夜 双葉社 本体1700円+税

神保町を取材するとじんましん

 

神保町は世界を代表する本の街だが、笹子が働く出版社もここにあった。笹子は、この地も何度も訪れるのだが、取材にあたっては、大きな覚悟があった。

 

「かつては毎日通っていた神保町ですが、街を歩くのは22年ぶり。それは、会社を解雇されてから過ぎた年月と同じです。取材に行く前日に発熱したり、じんましんまで出たりして……。何が出てくるか分からなかったので、警戒しながらちょっとずつ」

 

その笹子の解雇を象徴するのは、スカートだ。小笹一夫だった笹子は、会社に穿いていくズボンの幅を少しずつ広くしていき(作中では「ささぱん」と呼ばれている)、最終的にはスカートやメイクをした姿で出社を果たすのだが……。これは1993年、現在と時代の差はあるにせよ、解雇は理不尽に思われる。

 

「今だったら、クビにはならないんでしょうね。残念な時代だったんだと思います」

 

苦い記憶が渦巻く小説の終盤は、解雇劇の顛末が重心となり、藤野作品では珍しく、熱を帯びた筆致のように思われた。笹子が部屋にある古い書類の束から、解雇を宣告する辞令をみつけるシーンがある。それを手元に引き寄せ、じっと見つめる姿は印象的だ。

 

「あの辞令も、たまたまみつけて声をあげてしまって。探せば、ずっと部屋にあったんでしょうけど……。書けることは全部、吐き出すことになりました」

 

しかし、発掘されたのは苦い思い出だけではなかった。神保町を取材する際には、B級グルメを堪能するというお楽しみもあったという。ここは、カレーに代表されるようなB級グルメの街でもある。作品には、共栄堂やエチオピアなどのカレー屋をはじめ、エリカ、ミロンガ・ヌオーバなどの喫茶店が登場し、思わず「うまそう!」と声が出てしまう。

 

「久しぶりの神保町の風景は変わっていたけど、それほど変わっていないとも思いましたね。それは、よく足を運んだ店が残っていたからでしょう。食べたら、楽しかったことも思い出しました」

 

苦手だったセクシュアリティの取材

 

芥川賞を受賞した際には、トランスジェンダーであることも大いに話題となり、注目の的となった。近年の芥川賞の受賞者に関する祭りのような騒ぎは、少し行き過ぎの感もあるが、17年前の藤野さんの場合も同様だった。

 

「小説についてというより、トランスジェンダーの話に食いつくということが多かった。表向きは作品の取材でも、本当はセクシュアリティのことを聞きたくて来ているんだなって」

 

作品の中でも、芥川賞の選考委員が笹子を目にして「なんだありゃ」と口にした話や、写真週刊誌に掲載された「でっかく写ってる」アングルの写真に悪意を感じたことなどが綴られている。また、小説の人物描写についても、「ゲイのカップルが普通の恋人同士となにも変わらない」ことが、批判的な評価のポイントになったという。そんな選評については、「それも一つの代表的な意見」と解釈し、不本意だった写真についても、「自分が編集者だとしたら、でっかく見える写真を使っていたはず」と藤野さんは振り返る。

 

「神保町の風景が変わっていったのと同じように、セクシュアルマイノリティを取り巻く状況も変わった。当たり前のことですけど、少しずつ過去を掘り起こしながら書いていて、気がつきました」

 

「書かない」と決めて20年以上が過ぎたが、それを破った。メディアに露出することを苦手とする藤野さんだが、最近はイベントにも登場することもある。

 

「『本を読んで救われました』とわざわざ言いにきてくださった方がいるんです。神保町の書店も、サイン本をたくさん置いてくれて。『おかえり!』と言われた気がしました。あんなにまで、頑なに遠ざけることはなかったのかもしれませんね」

 

(取材・文/沢田アキヒコ)

 

藤野千夜(ふじのちや)

1962年福岡県生まれ。出版社に勤務し漫画編集者を経て、95年『午後の時間割』で第14回海燕新人文学賞を受賞しデビュー。
98年『おしゃべり怪談』で第20回野間文芸新人賞、2000年『夏の約束』で第122回芥川賞を受賞。主な著書に『ルート225』『主婦と恋愛』『ネバーランド』『君のいた日々』『D菩薩峠漫研夏合宿』『すしそばてんぷら』などがある