伏見憲明「平成のLGBTを見送って」

年号でいえば平成の前半期、私は書き手として、同性愛やセクシュアリティをめぐる動きのフロントにいた(と思う)。もはやそれすら自分でもぼんやりとした記憶になりつつあるが、いわゆるカミングアウト本の先駆けを出したのは平成3年で、以降、メディアでゲイカルチャーの水先案内人みたいな役割を請け負っていた。ゲイだけでなくレズビアンやトランスジェンダー…など、いまでいうところのLGBTの土俵を率先して作ろうとした時期もあった。いってみれば、性的マイノリティが恐る恐る陽の当たるところに出てくる平成の御代の、つゆ払いのような役目を果たしていた。

そんな私であるが、昨今のLGBTの持て囃されかたには、どこか鼻白む思いがないわけでもない。もちろん、人権問題として自治体の予算がついたり、同性パートナーシップ制度のような条例が作られることには諸手を挙げて賛成である。けれど、手のひらを返すようにLGBT支援に転換したメディアや行政などには、少しは意地悪なこともいいたくなる。

平成の前半期は、たとえば、性的マイノリティのパレードなどが開催されても、大手マスメディアは積極的には報道しなかった。リベラルで名高い新聞でさえ、数百人の女子学生らによる就職差別のデモを一面で取り上げることはあっても、数千人規模の同性愛者らのパレードは無視、あるいは家庭欄あたりでお茶を濁す程度にしか記事にしない。同性愛に関してはずっと以前からアメリカ大統領選挙の争点の一つになっていたのに、政治部は妊娠中絶問題はレポートしても、ゲイやレズビアンにはほとんど触れようとはしない……。

先般、フジテレビのバラエティ番組で「保毛尾田保毛男」というキャラが復活したことで、当事者や人権団体が大いに怒った件があった。「保毛尾田保毛男」というのは平成の初頭、人気番組「とんねるずのおかげでした」で、石橋貴明が男性同性愛者と思わしきキャラクターに扮し「ホモネタ」で笑いを取るコーナーだった。放送当時はまだ異議申し立ての声も上げられなかったが、今日では多くから抗議が寄せられ、大メディアのトップが頭を下げざるをえなくなったのだから、隔世の感という言葉以外に浮かばない。

日本で最初の同性愛者の人権をめぐる裁判となった「府中青年の家事件」は、平成3年から争われ、一審二審ともに原告側の勝訴で結審(平成9年)した。この裁判によって、同性愛が差別に関わる事柄だという認識が知識層には広がり、セクシュアリティの多様性は人権問題のインデックスに新しく加えられることになった。時を同じくして、欧米の同性愛者の運動の発展や、国内のBLマーケットの拡大によって、「リアルなゲイ」という存在に注目が集まり、さまざまな媒体でゲイが取り上げられるようにもなった。

また、性自認(性別アイデンティティ)に関わるマイノリティ、トランスジェンダーに関しても、節目となる動きがあった。平成8年、埼玉医科大の倫理委員会が性別適合手術を正当な医療行為と位置付ける答申を発表し、その後、「性同一性障害」として診断されれば、性別を変更して生活していく道が開かれていく。あるいは、同性愛ともトランスジェンダーとも異なる、インターセックスをカミングアウトする活動家も現れた。

このように、平成の前半期を通して、同性愛者ばかりでなく他の性的マイノリティの可視化も進み、それらを後押しする学術的な言説も輸入され、映像・小説などのカルチャーも少なからず生産される。平成6年には南定四郎氏らの主催でレズビアン&ゲイ・パレードが東京で開催され、以降、東京のみならず、地方でも数百人から数千人規模の性的マイノリティのパレードが実現した。これらは一部の動きとはいえ、大きな進展だった。

にもかかわらず、当時、新聞やテレビなどの大メディアは(とくに同性愛に関しては)積極的に報道したとはいえなかった。その頃、私は知り合いの新聞記者に「性同一性障害は病気だから医療の問題として取り上げられるけど、同性愛はねえ……」と耳打ちされたことがある。私自身、某公共放送のニュース番組で取材されたインタビューが、理由も示されないでお蔵入りになったことさえある。同性愛以前に、そもそも性にまつわる問題を、公共の領域で語るのはまだ抵抗感が強かったとも言えた。

さて、平成とともに始まった当事者の動きも、平成13、4年あたりでひと段落する。欧米を後追いして映画祭やパレード……などを一通り実現したのはいいが、次の具体的な目標がいまひとつ見えず、全体的に手詰まり感が強くなった。市民運動や少数の表現者、アカデミシャンなどの影響力では、それ以上には、立ちはだかる岩盤を切り崩すのに限界があったのだろう。当事者の自己肯定感の水位がさらに上昇するのを待つ必要もあった。私見にすぎないが、平成15年から20年代の頭くらいまではパレードもいまひとつテンションが高くなったし、それほど目新しい出来事も起こらなかった。

私自身もそのあたりでムーブメントとは距離が開いていった。もう自分でやれることもやりたいことも尽くした感があったのである。十数年、全力で走り続ければ一個人の限界は見えてくる。

しかし、この“踊り場状態”にあった期間にこそ、コミュニティでは次の時代の準備がなされていたのだろう。

平成20年代のLGBTムーブメントは、平成前半期の解放運動やカルチャーに洗礼を受けていた世代のなかで、むしろその時代には直接関わらず、その後企業人として社会生活を積み重ねた人々のなかから立ち上げられることとなる。エリート層を牽引力とする彼らは、2000年代に入ってさらに拡大していった欧米のLGBT運動や、外資系企業におけるダイバーシティの称揚などに触発されることで、現実的な改革に乗り出していった。グッド・エイジング・エールズというNPOに象徴されるが(平成22年設立)、自らがアクセスできる社会的資源を積極的に活用する戦略で、LGBTのシェアハウスを運営したり、有名写真家やアパレル企業とタイアップした写真展を展開したり…と、企業やメディアなどを巻き込み、新しい運動の可能性を見せた。

それは、オバマ政権期のリベラルな思潮とも相まって、平成20年代の状況に響いたのだろう。第二期ともいえる平成のムーブメントの特徴は、同性愛者中心の運動から他の性的マイノリティとの連携、つまり主軸をLGBTに移したこと、企業社会の内側から当事者の声が上げられたことが挙げられる。職場環境や企業イメージの問題としてLGBTの存在に焦点が当てられた。従来の「解放運動型」から、「広告代理的戦略」が取り入れられたともいえる展開だった。

私などかつて、性的マイノリティの問題で企業の動きが活発になるとは想像だにしなかった。が、実は、グローバル企業の影響ばかりでなく、部落解放運動など先行した反差別運動によって、それに対応するための蓄積がすでに日本企業にはあり、LGBTもその成果の恩恵に浴する面もあったようである。

もちろん企業関係ばかりでなく、行政や大学、草の根の場でもLGBTへの取り組みは広がりを見せた。それは平成前半期よりもずっと広範囲で、参加者の層を厚くしている。

こうして平成の後半期、新世代のムーブメントが裾野を広げていったが、同時に、日本の場合、当事者の意識よりも社会の意識の進化のほうが速い面も見過ごせない。渋谷区では、ダイバーシティの価値に共感する議員や区長の肝いりで、同性パートナーシップ制度が作られ、新聞の一面を飾る大きなニュースとなった。尽力した当事者がいたにせよ、これは大方のアクティヴィストの予想さえ超えた事態だっただろう。実際の運用以上にこの制度がもたらした影響は圧倒的で、以来、LGBTに関する施策は保守政党も無視できない政治的イシューになりつつある。

日本では草の根からの積み重ねで社会が変化するというより、むしろトップダウンによって構造が大きく動く。平成20年代のLGBTをめぐる状況の起爆剤が、広告代理店大手の電通のLGBTに関する調査報告や、前述のパートナーシップ条例であったことは間違いない。そして、悔しいかな、日本における民主主義は欧米の政治に連動して、海の向こうで達成されたものの何割かの水準に追いつくにすぎない、という現実も否定できないだろう。

ともあれ、この国は、一神教的な宗教原理が強く作用しないだけに、良くも悪くも変わり身が早い。ありていにいえば「長い物には巻かれろ」、政治学者の丸山眞男なら「いきほひ」と指摘するところの波に世間は乗る。差別はまだそこかしこにあり、課題も山積ながら、ここ数年の潮目の変化に、日本社会の本質的な構造を垣間見たのは、私だけではないはずだ。

ところで、この原稿を書き始める直前、私は台北にいた。近年、LGBTに関してはあまり関心を持たず、そうしたシーンからは引きこもりがちの私であったが、そこで行われるLGBTのプライド・パレードを観るための旅だった。台湾では日本から遅れること9年、2003年からパレードは始まったのだが、その規模はいまや東京をはるかに凌ぎ、日本ばかりでなく、中国から他の国からも参加者を集め、アジアで最も盛り上がっているという。そんな新しい時代の息吹を感じてみたかったのである。

驚いたのは、すでに成田を出発するところから、台北のパレードに参加すると思わしきゲイのグループがやたら目についたことだった。日本人も中国語を喋る人もいた。以後、飛行機のなかでも、台湾の空港においても、台北市街やホテルでも、性的マイノリティの姿の多さに驚くばかり!

2017年に台湾はアジアで最初に法的な同性婚を実現する方向に舵を切り、アジア諸国のなかでもっともLGBTやダイバーシティの施策に先進的な国となっていた。私が半ば隠居生活をしている間に、LGBT運動は国際的にもネットワーク広げていて、台北は東アジアのLGBT運動の結節点になっていたのである。

12万人以上を集める当地の空前のイベントは、1960年代末のアメリカに端を発したリベレーションが、太平洋を超え、アジア諸国をも繋いで、新たな段階に入りつつあるのを示していた。

台北のパレードには東京パレードを主宰する団体もフロートを出していて、その車上ではゲストの歌手、MISHAが沿道に向かって手を振っていた。現地でも人気がある彼女はこのために訪台したという。ほかにも日本からの参加者たちがこの異国の地で、思い思いの衣装をまとって自己主張をしていた。私の友人で、東京ではパレードやLGBT運動に興味を示さないたぐいの連中の姿も少なからず見かけた。台湾人と日本人の共同グループも目についた。

ここでいったい何が起きているのだろうか? と、浦島太郎にでもなったような心境になった。平成の始まりとともにLGBTの最前線に躍り出たはずの私が、平成の終わりにはすでにこの世界的な潮流の後衛に位置しているように自覚した。どこまで滔々と流れるカラフルな人波を見送りながら、時代が自分を鮮やかに追い越して行く後ろ姿を見たような気がした。

(初出・「激動の平成史」洋泉社 2017.12)