伏見憲明の書評
宮台真司ほか『ウンコのおじさん』(ジャパンマシニスト)

個人的な話しからはじめて恐縮だがーーー。

物書きとしての私は、同性愛者であることをカミングアウトする著作から出発した。四半世紀以上も前で、性的少数者であることを公にする人がほとんどいない時代だったが、そのときの蛮勇は、心の奥にあった自己肯定感に支えられていたように振り返る。たぶん、それを育んだのは母親の愛情だった。昭和初期の教育を受けた女性ゆえ、当然、同性愛に偏見もあったが、息子のどんな面も個性として受け止めようという懐の深さがあった。「あなたはあなたのままでいいのよ」という親からの承認は、かくもありがたい。

そういう自我の基礎工事が親との関係でなされていないと、子どもは自己を肯定することも、誰かを愛することもままならなくなる、というのが本書『ウンコのおじさん』で著者が言わんとしていることである。単にコントロールする・されるという依存関係からは、親は子どもに「マトモな人生を送るための学びの場となるホームベース」を与えられない。

本書は、社会学者の宮台真司氏が(ほか二人の著者とともに)講義を行う体で、自身の父親としての経験や幼少期の体験をもとに、子育てについて様々な議論を展開する啓蒙書だ。社会学はもとより人類学、教育学などの知見を縦横に用いながら、現代の家族関係を分析してみせる。

氏によると、母親の役割が子どもにゆりかごのようなまどろみ、つまり万能感を与えるものなら、父親の役割はそれを断念させること。その大いなる肯定と、痛みを伴う否定の両方を与えることが大切だという。父の役割によって子どもは、自分も、そして親すらも、社会のなかでは小さな存在にすぎないことを知る。そしてその気づきがないと、過度な親のコントロールによってもたらされた万能感を払拭できず、社会に自分をうまく接続できない。結果、物事を損得勘定でしか考えられず、恋愛にも政治にもまっとうに関わることができない大人が生み出されることになる(ただし、ここでいう「父」「母」の役割を担うのは男女どちらでもいいし、一人二役でもかまわない)。

宮台氏はそんな子育てにならないための思考や、処方箋を本書でさまざま提示している。「かつては親子に介入するさまざまな関係がありました。親が『縦』の関係だとすれば、友だちは『横』の関係。親戚や近所のおじさんは『斜め』の関係です」。現在は近所に斜めからユニークなそそのかしをしてくれる「へんなおじさん」がいない、ということで、自ら「ウンコのおじさん」と称して、子どもたちの登校時間に合わせて、蝋石で地面や柱にウンコの絵を描いている「へんなおじさん」を演じて彼らを感化した、という実践には大いに笑わされた。そのような「ノイズ」を与えてくれる大人の存在こそが、親から子への過剰なコントロールを断念させる力になる。子供はいろんな方向から吹いてくる風にさらされることで十全に育つのだ。

宮台氏の視線は性教育にも厳しい。「妊娠の恐怖」や「性感染症の恐怖」などを煽る不安教育ばかりやっているから、子どもたちを恋愛から退却させ、利得でしか人や社会に関われない人間を作ってしまっていると批判する。利得を超える愛を教えるには、自らの人生をかけて伝えなければその言葉は伝わらず、それを語るに足る人材が不足しているのが性教育の一つの問題だ、と。

大人が育たなければ子どもは育たない。親が病んだままでは負の連鎖が続いていく。本書が、子育てを学びながら大人が自分を育て直すための示唆にも富んでいることは間違いない。

ところで、宮台氏の分析を読みながら、私は自分の父のことを思い出していた。昭和のがんこ親父で大酒飲みだったから、会話にも乏しい父・息子の関係で、子ども心に彼のことは苦手だった。しかし、ある意味、彼が社会というものの理不尽さを知らしめ、一方で経済的な庇護と不器用な愛情を与えてくれたからこそ、私は人間の矛盾を受け入れることができる大人になれた。図らずも、本書のおかげで、セピア色の記憶に新たに色彩を加えることができた。

という具合に、この本は家族の和解にも一役買えるほど、豊かで、あたたかみのある思考に満ちている。

(初出・日本製教育協会HP)