伏見憲明の書評
山口真由 著『リベラルという病』(新潮新書)

 

日本で性をめぐる状況が大きく変化するのは、欧米での政治情勢の変化によるところが大きい。昨今のLGBTの持て囃され方も、オバマ政権期の欧米スタンダードの改訂によってもたらされた、とも言えるだろう。虚しいかな、国内のアクティヴィズムの興盛よりも、むしろ欧米における進展の何割か分だけ日本社会は変化する、といったほうが正解かもしれない。実際、この国で最も説得力のある主張は、「欧米に比べて日本は遅れている」というものだ。だから、海の向こうの事情が変われば、いつのまにかそれに倣う。実のところ、根拠など二の次なのだ。

しかし本家本元の米国は、そういう風見鶏のごとくに社会は動かない。それはまごうかたなき政治闘争によって「動かされて」きた。そして性とはまさに、政治権力がその合意の線引きを巡ってせめぎ合う境界線上にある。本書の著者はリベラルの牙城、ハーバード・ロースクールで学んだ経験から、かの国のリベラリズムの意味と、その背景についてここでわかりやすく解説してくれている。

米国の「性の政治学」の主戦場は、連邦最高裁である。体系化された「法典」を持たず、判決の積み重ねによってルールを作ってきたかの国では、司法の力が強く、その判事の構成いかんで国家としての価値観が左右されてきた。個々の最高裁判事がどのような思想信条を持っているかは隠すものではなく、むしろその偏差によって選ばれ、判断を下すことが求められる。ゆえに判事の立場は政治的であり、任命する大統領と、それを承認する上院におけるリベラルと保守の対立は熾烈を極める。

2015年にアメリカ全土で同性婚を認める判決が下ったのは、その前に三人の保守派の判事が引退したり死亡したりしたことによって、最高裁のリベラル・保守のバランスが逆転した結果だという。なるほどなあと思ったのは、同性婚に反対していた保守派の判事の主張は、同性愛が道徳的に良くないからという感情論ではなく、あくまでも、憲法を拡大解釈すべきではないという法理を論拠にしているという点。ハーバードのロースクールのリベラル学生でも、それに反駁するのは難しいらしい。

著者は、ここにリベラルと保守の本質的な違いがあるのだとする。「リベラルは、時代に合わなくなった法律を、少数者を保護する方向に拡大解釈しようとする」。保守の側はそういう「司法積極主義」に対して独善的なエリート思想を嗅ぎとり、一部のエリートの願いを大衆の総意に優先させてはいけないとする「司法消極主義」をとる。民主主義が国民の意見の反映でなければならないとすれば、保守の論拠とするものも、その原則からしたらけっして間違ってはいないだろう。これは、民主主義とは何か? といった本質的な問題に関わっている。

日本の場合、少数者への差別や排除は「世間の空気」といったものに左右されがちだから、変わり身も速い。それは是も非も根拠が薄弱なだけに、政治というよりは情緒による態度の変化といえる。一方、アメリカでは政治的な論争による一つ一つの積み上げによって社会が変わる。逆に言えば、差別にも根拠があるということになるわけだから、攻撃も苛烈にもなる!

一概にどちらがいいとは言えないが、民主主義というものがいかに危うい虚構にすぎないのかを、本書は思い出させてくれるはずだ。また著者は、アメリカのリベラリズムは、奴隷制を原罪とするある種の「平等信仰」であるとも指摘し、「ポリティカル・コレクトネス」を求める昨今のリベラルの行き過ぎには、疑問を投げかける。多様性を主張することから発した一方通行な断罪もまた、多様性を否定する宗教になりうるのだ、と。他山の石としたい。

(初出・日本性教育協会HP)