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大塚ひかりの変態の日本史 その13

『往生要集』のエログロな地獄

  『うんこ漢字ドリル』や『うんこ図鑑』が売れるなど、ちょっとしたうんこブームがきているように感じる、うんこ大好きな私ですが、古典文学にもうんこネタはてんこ盛りです。

 『風土記』では、オホナムチ(大国主神)がうんこを我慢できるか競争したり(第二回目参照)、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』には、振られた色男が、女のうんこを見て興ざめしようとした、なんて話もある。

 が、うんこをリアルに描いた有名古典といえば『往生要集』の右に出るものはありますまい。

 『往生要集』は、極楽浄土にいかに往生できるかを説いた、平安中期のハウツー本。作者は源信というお坊さんで、『源氏物語』の宇治十帖に出てくる高僧横川の僧都のモデルとしても有名です。

 で、この本には、往生する方法を述べる前段階として、いかにこの世が汚物にまみれているか、地獄がおぞましいかが、これでもかと語られています。

 そこに、うんこがいっぱい出てくるのです。

 八大地獄の中では最も軽い罪の者が堕ちる等活地獄に属する”屎泥処しでいしょ”。文字にもクソだのドロだの含まれている、いかにもな地獄には、「極熱のうんこ」(”極熱の屎泥”)がある。で、その味、最も苦しと、味まで記されるんですよ。うんこ地獄の中には金剛のくちばし、つまりダイヤモンドの硬さのくちばしをもつ虫が充満していて、ここに堕ちた罪人はその中でこの熱屎を食らう羽目になります。しかもたくさんの虫が寄って来て、罪人を一斉に噛む。皮を破って肉を食み、骨を砕いて髄を吸う。そういうことがすべて極熱の「うんこ地獄」の中で繰り広げられます。

 ここに堕ちるのは「生前、鹿や鳥を殺したりした者」だといいます。現代人から見るとあっけないほど軽い罪ですが、殺生を重罪とする仏教では、これはアウトだったんですね。

 

 地獄には性的な責め苦も多々あります。

 八大地獄の下から三番目の衆合地獄には、刀葉林というのがあって、ここには葉っぱが刃物でできた木が生えている。

 そこに獄卒が罪人を置くと、樹上に着飾った美女がいるのが見える。罪人が美女を目指して樹を登ると、刀の葉が体を切り刻み、筋を裂きます。それでも欲望にかられた罪人は必死で樹のてっぺんに辿り着く。すると美女は地上に降りていて、いかにもセックスしたそうな、媚び媚びな目つきで罪人を見て、

「あなたを一途に慕って私はここに降りて来たのに、あなたはなぜ私のもとに来てくれないの? なぜ私を抱いてくれないの?

と訴えてくる。罪人は当然、この女とヤレると期待します。で、樹を降りると、今度は刀葉は上を向いてカミソリのようになって、罪人の体を切り刻みます。それでもヤリたい一心で地に降りると、美女はすでに樹上にいる。罪人はまた体を刻みながら木登りをする。こんなことを無量百千億年、自分の欲望にたぶらかされながら続けなくてはいけないのですから、まさに「エロ地獄」。

 ここに堕ちるのは邪欲が原因。よこしまな欲望に振り回された者といいますが、具体的にはどうよこしまなのかは、『往生要集』には説かれていません。

 

 ヒントは、この地獄に属する悪見処でしょうか。ここには、他人の子どもを誘拐し、無理に邪行”(よこしまな性行為)を迫り、叫ばせ泣かせた者が堕ちます。罪人は、目の前で、我が子が鉄杖や鉄の錐で以て性器を刺され、鉄の鉤で以て性器をクギ打たれる様を見なければなりません。

 そうした心の苦を与えられるだけでなく、自分自身は逆さ吊りにされ、熱い銅汁を肛門(”糞門”)に注がれ、五臓六腑を焼かれるという身の苦を受ける。これが無量百千年繰り返されます。

 また、その名も多苦悩という別処には、男が男に邪行”*を行った者が堕ちる。そこでは相手の男は熱炎に包まれ、その体を抱くと、自分の体がすべて熱で溶け去ってしまう仕組みになっている。そうして死んでしまうものの、蘇ると今度は恐怖が襲ってきて、相手の男を避けて走り逃げると、そのまま険しい崖から落ち、谷底にいる炎の口をもった鳥やらキツネやらに食われてしまうんです。なんでキツネなの? とも思いますが、日本最古の仏教説話集の『日本霊異記』ではキツネは”来つ寝”と呼ばれ、人間と交わる生き物とされていた。だから、なんでしょうか? よく分かりませんが、精神的にじわじわきそうな地獄です。

 仏教では、男色は容認されていたものの、その内容によっては(残念ながら『往生要集』には、邪行としか記されておらず、具体的な内容は書かれていないのです。想像にお任せというところでしょうかw)こんな恐ろしい地獄に堕ちるとされていたのです。

 『往生要集』によれば、地獄の人は物凄く臭く、地獄の臭気は凄まじいと言いますが、地獄に堕ちなくても、生きているだけで、人間は汚い。どんなに美しい人でもその中身はどろどろで汚い、といいます。その様は、

「いわば綺麗に装飾した瓶に、ウンコを盛ったようなものなのである」(“猶しえがける瓶に糞穢ふんゑを盛れるが如し”)

と。

 人間は、生きるクソ袋だというわけです。

 だから、そんな不浄なこの世に見切りをつけよう、これ以上、六道を巡らずに、浄土に生まれようじゃないか、というのが『往生要集』の教えであり、浄土の光景をイメージトレーニングすべく、そこにおられる仏のこまかな身体特徴、体の色や隠された性器、毛穴を照らす光まで心に浮かべて浄土に近づこう……というので、その記述に費やされているのですが……

 冒頭の地獄の描写のインパクトが強すぎて、『往生要集』といえば地獄、地獄といえば『往生要集』みたいなことになり、獄卒が罪人を釜ゆでにしたり、舌を抜くといった、地獄のイメージを作ることになったのです。

 人は放っておくと、プラスのことよりマイナスのこと、ネガティヴなほうへと流れる、根はみんなエログロ好きということなんでしょうか。(了)

 

*“邪行”に関してなのですが、文脈からすると、男色自体を指しているのではないようです。というのも、ほかにも”邪行”は出てきて、他人の子に”強ひて邪行”を迫り、という段のあとに、報いとして罪人の子の”陰中を刺し”とあって、男女問わず「よこしまな性行為」を指すみたいです。

『源氏物語』の伝える横川の僧都は(要するに源信をモデルにしてる人)、とても清らかな僧で、薫という権力者にも媚びない態度だったものの、薫が可愛い少年・小君を使いにやると、コロッと薫になびいてしまうくだりがあるんです。浄土教で男色がダメとされていたことはなく、源信にしても、男色はフツーに受け入れていた人なんじゃなかろうか、と思います。

『往生要集』全体としては、女を穢れた者と扱う感じはあるものの、男のことはそうでもない印象もあります。

邪行、気になりますよね。ほかにも”邪婬”という語も出て来て、これは仏教の教えの十悪の一つで、夫または妻が、配偶者以外の異性と交わることだそうです。また、自分の妻や夫であっても、「不適当な方法や場所・時間に行うことも、邪婬としていましめられる」といいます。

本来の仏教はこんなふうにお堅くて、それが日本に入るとそうでもなくなったわけですが、『往生要集』の書かれた西暦985年にはまだ少しはこういう建前が残っていたのかもですね。

 

大塚ひかり(おおつか ひかり)
古典エッセイスト。1961年横浜市生まれ 早稲田大学第一文学部で日本史を専攻。『ブス論』、個人全訳『源氏物語』全六巻(以上ちくま文庫)、『本当はひどかった昔の日本』(新潮文庫)、『昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか』(草思社文庫)など著書多数。趣味は系図作り。

 

絵・こうき
http://aday.online/2018/03/12/asahi/