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こころとぬか漬け

先日は「生誕祭」どころか自分の誕生日をまったく忘れていて、夕方、エスムラルダさんから届いたお祝いメールで「あ、そうだった!」と思い出した。そういう記念日には無関心な上、五十五歳なんて何がめでたいのかと無意識に記憶を消していたに違いない。だって、昔だったらもう定年退職だし、明治以前だったら人生だって終わっていても不思議ではないお年頃。どうしてこんな歳になるまでうっかり生きてしまったのだろうか…とため息がでた。

いささか鬱々としているのは、この前、必要があって夏目漱石の『こころ』を読み返したからかもしれない。この小説のページを繰ったのは中学生の夏休み以来。そのときにもうっすらと「これって、自分と似てる」と思ったものだが、この物語に漂っている情感は異性愛のそれではなく、やはり男同士の恋慕だろう。前半の主人公の先生に対する執着はもちろんのこと、先生のKに対する気持ちも、後半の、手紙にしたためられた自己分析とは異なり、恋愛感情の介在していることは隠しきれないなあ…としみじみ。

そして、なにより印象的だったのは、死というものから照射される生の残像。「人は生きているだけで価値がある」などという薄っぺらい標語を溶かしてしまうような濃密な影が、物語を支配し、むしろそのことによって生が立ち上がってくる。その抗えないような重力に、まるで中学生の自分を目の前につき出されたような場都の悪さと、五十五歳の無為な日々が重なって、どうにも重たい読後感を抱えてしまった。思春期の自意識過剰(中二病っていうの?)と、高齢鬱はどこかで繋がっている気がするのは、伏見だけだろうか。

気分を換えようと、最近はじめた糠漬けを冷蔵庫から取り出してみた。胡瓜を入れておいたのだけど、どうも漬かりすぎてしょっぱい。古漬けというにはまだ中途半端で味わいもない。にんじんはまだ食べるには早いみたいで、茄子はどうにかこうにか。ほんと、漬物はタイミングが難しい。でも、日常、頭のどこかに糠味噌のことが引っかかっていると、感情が振り切れそうなところから日常に戻ってくるきっかけが掴みやすい。しょうもない厭世観より、胡瓜の歯ごたえ。こういう知恵は思春期にはなかったので、年齢を重ねた効用といえるのかもしれない。

伏見憲明