Pocket

伏見憲明の書評

遠藤まめた 著「オレは絶対にワタシじゃない」(はるか書房)

 

トランスジェンダーというのは、それを自身に経験したことがないものにとっては、やはり不可思議な現象である。

LGBTG(ゲイ)である私も、幼少時から「女性的」ということでずいぶんいじめられたものだが、自分の身体に違和感を感じたことはないし、ましてや外性器とは反対の性別アイデンティティを抱いたことなどない。というか、私の場合、性別アイデンティティというのがいま一つピンとこない。昨今いわれるような ジェンダー(男であることにも女であることにも違和感がある)というのでもなく、性別に関しては軽く、「まっ、男性器がついてるから(少々女っぽいけど)男だよね」くらいな「認識」を抱いているにすぎない。そんなにみんな、明確な実感を性別に抱いているものだろうか、と思うくらいである。

本書の著者は(女性として生まれたが心は男性だという実感を抱く)FtMのトランスジェンダー。幼少の頃からそのことで自分にも、周囲にも違和感を抱えざるを得なかった31年間の半生を、ここで綴っている。

虎井まさ衛氏の『女から男になったワタシ』(1996)以来、私はその手のライフストーリーに多く接してきたが、「性別違和」というのがこれで初めて腹に落ちた気がした。すぐれた文芸作品が読者に登場人物の心持ちを追体験させるように、遠藤氏の文体は読み手の性別感覚をもトランスさせる!

「夜になると、行きたい方面とは逆に暴走していく急行列車にまちがって乗ってしまい、そこから降りられないという夢を見た。泣いても笑っても、思春期の身体は変化していく」

こうした切実さのなかにもユーモアを忘れない表現に、読者は微笑みつつ共感を深めていくのだ。

遠藤氏はその青春を一つの「冒険」であったと振り返る。入学した女子校では、色気づいて「女」になっていく友だちを横目に、「くそー。どいつもこいつも、カルトにハマりやがって……」と嘆き、思春期にトランジェンダーの情報に触れたはいいが、望みの身体を手に入れるのはまるでヒマラヤ登山の計画をひとりで全部するようなものではないか!とおののき、大学時代、ニューヨークへLGBTの問題を考えるべくツアーに行き、アメリカでもいまだ問題は山積であることに目を開かされ、台湾では、市役所で見つけた「性別不問トイレ」の多様性に深く感銘を受け…と、行く先々で立ち現れる事どもを繊細に、そして丸ごと受け止めていく様は、冒険家そのものである。

現在、遠藤氏は企業で働きながら人権活動に日々取り 組んでいる。その一つである「トランスジェンダー生徒交流会」は、性別違和のある子どもたちと、大人が一緒にご飯を作って食べる親睦の集まりだという。そこでの自身を見つめる描写は、実に聡明だ。コロッケなどを子どもらと調理し、みんなでワイワイ食べる傍ら、

「…トランスジェンダーかもしれないわが子を初めて会に連れてきたという母親が、『どうぞよろしくお願いします』と深く頭を下げていて、その後ろを、子どもたちがゴキブリを追いかけてキャーキャーと走っていった。
カオスのなかで、私たちは差別と闘っている」

かつてウーマンリブの田中美津氏は、自らの行動を「取り乱し」だと表現し、整理のつかないおのれの感情やら矛盾やら…をそのまま抱え込んで差別と闘っていくと宣言したが、遠藤氏もまた、差別と対峙する自分が一個の混沌であることを理解している。たぶん、その前提さえ踏み外さなければ、反差別への挑戦は豊かな経験となるはずだ。

迷いながら走る彼の冒険譚の続きを、ぜひとも読みたい! と願う読後感であった。

 

伏見憲明
(初出・日本性教育協会 2018.10 )